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おもしろい論文とは

omoroironbuntoha160.jpg おもしろい論文とは 

おもしろくないタコツボ論文の大量生産と、科学のパラダイム危機は、表裏一体である――学問のタコツボ化を歴史のなかから紐解き、「おもしろくない論文」が生まれる背景を考察する。
おもしろい論文をいかに生み出されるのか。


定価:260円(税別)




立ち読み

   さて、まず第一。一般教養人にさえ理解不能になった研究報告のあり方が常態となったとき、その分野は「科学」となる、という認識こそT・クーンによるパラダイム論の大前提であった。科学的業績の単位は、すでに解決した問題群の蓄積であり、くろうとはそこに疑問をさしはさむような真似はしない。だから「新しいパラダイムの基本的発明を遂げた人は、ほとんど、非常に若いか、パラダイムの変更を促す分野に新しく入ってきた新人のどちらか」であった(クーン、一九六二年)。
 だが科学者の卵たちは、がんじがらめの業績主義にからめとられつつある。クーンはだから、大急ぎでつけ加えねばならなかった。「コミュニケーションの断絶の中にある人にできることは、互いに異なった言語集団のメンバーであることを認めた上で、翻訳者になること」、つまり「自分の言語で表現することである」と(クーン、一九七〇年)。

 くろうとからの反論が予想される。専門用語なしには語りえない、概念は科学の生命線なのだと。「概念」など昭和初期の流行語でしかなく、しかも例えば「利ざや」を「剰余価値」、「虫の知らせ」を「予覚」といってみただけ、つまり学者にとって概念は便利だっただけ、という事実はここでおくとしても(谷崎潤一郎、一九三四年)、しかし、その研究は何の役に立つのか、それは安全なのか、どう応用しうるのか、どんな道程があったのかなど、しろうとにも議論できる素材を充分に提供する努力は大学人の義務とされねばなるまい。

 原発や脳死や臓器移植や遺伝病やらの専門研究に、しろうとは「倫理」をもって対抗するほかなく、またしても何々臨調などといったくろうと集団の煙にまかれ続け、その倫理戦術も感情論の域を出にくい。だが、倫理に訴えることは「全体主義思考の典型なのだ」(鷲田小彌太、一九九三年)と切り捨ててしまっていいのか。「大衆の病理」(西部邁、一九八七年)が事態の半面だとしてもなお、くろうととしての専門家ないし研究者が、くだんの専門分野について全体像との関連を翻訳できないところにまで立ち至ってしまった現在、多数ないし大衆に批判の刃を向けるよりもむしろ、くろうと集団がまず自己懐疑を開始すべきだろう。
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