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「学校へ行く」とはどういうことなのだろうか

gakkou.jpg 「学校へ行く」とはどういうことなのだろうか
北大路書房

『<ルポ>高校って何だ』と『<検証>大学の冒険』合本し、新たな一章を加えたものです。

定価:1,800円(税別)

本書は全国の書店またはamazonなどのネット書店でお求めください



《編集者がつけてくれた帯のコピー》
日垣隆がいまあらためて問う「学校」というものの現在と未来


目次

序章 十四歳のリターンマッチ
――「学校へ行く」とはどういうことなのだろうか
不登校/戦場/大人の世界/転機/ときめき/挫折/結果?/進路
<ルポ>高校って何だ
第一章 閉ざされた回路――神戸「校門圧死」事件の深層/
第二章 中退させる権利?
――岐路に立つ全人教育/
第三章 農業高校の挑戦――「予感」をもてる場へ/
第四章 チマ・チョゴリへの視線
――朝鮮高級学校で考えたこと/
第五章 <学力低下>の構図
――受験教育ボーダーレス現象から
●誰のための、何のための高校?
<検証>大学の冒険
第一章 「大学危機」異論
第二章 改革のジレンマ
第三章 おもしろい授業とは
第四章 おもしろい論文とは
第五章 図書館行こう
第六章 人を耕し、地に学ぶ
第七章 北の街、南の島
第八章 「学歴社会」異論
●参照文献一覧
あとがき
あとがき

 世界のあらゆる場所で、教育問題は語られている。
 少なからぬ国では、識字や、義務教育への入学勧誘と学校建設、過酷な幼年労働からの解放が、最大緊急の課題である。アメリカで家庭内暴力といえば、親が子に対してふるう過激な虐待のことをさす。エイズや麻薬との深刻な教育的課題を抱えこむ国々も多い。国家が崩壊し、それまで確固たる教育原理であった価値観が全否定され未だ戸惑う現場もある。シンガポールでは大学が一つしか存在せず、小学生に熾烈な受験戦争を強いる。エリートたちが大量に国外脱出してしまった国も、一つや二つではない。難民とて、大人だけの困難でないことは明らかだ。矛盾や悲劇は、子どもたちにこそ集中しやすい。
 日本が抱える教育問題など、ぜいたくな悩みである、そういえないこともない。
 もうずいぶん前のことだが、たまたまソウルで私は、女子高生コンクリート詰め殺人事件の東京発ニュースに接した(一九八九年三月)。幼女連続誘拐殺人事件の犯人逮捕は、「壁」崩壊前夜のベルリンで、だった(同年八月)。かの国々での報道は、いかにもセンセーショナルではあったものの、この二つのニュースは明らかに、日本以外の国で起きても何ら不思議はないゆがみとして人々の胸には刻まれていた、と思う。
 しかし翌九〇年七月に起きた、あの事件は明らかに違っていた。日本では起こるべくして起きたと多くの人にはとらえられたはずの、神戸高塚高校「校門圧死」事件をベルリンで耳にした私は、少なくともドイツ人たちと、その歪みを共有して語り合うことはできなかった。ベルリンのドイツ人たちとは違って、日本に住む私には、校門を閉めた教師に殺意がないことは、断言できた。「善意」ですらあったろう。だが、なぜそう断言できるのか、異国の彼らに納得してもらうことはできなかった。自主性と思考力をはぐくむ場所であるのが学校の大前提だと確信する彼らにとって、校門に駆けこむ生徒の自主性と思考力はもとより生命までをも奪った教育指導の存在など、信じろというほうが愚かな試みだったのだ。
 なぜ日本人には、あの事件が理解できてしまうのだろう。
 事件から一カ月をおいて私が神戸におもむいたのは、そうした根源的な疑問に突き動かされたためだった。あの悲劇の一瞬に至る謎解きを試みつつ、事件の深層にアプローチを試みたその結果、日本の高校教育における公約数的な指導を、そこに見いださずにはおれなかった。
 私はその後、「日本の高校」を断続的に追いかけることになる。処罰としての高校中退を追い、農業高校や朝鮮高校にも通ってみた。受験の現場にも身を置いた。
 こうして出来上がったのが『<ルポ>高校って何だ』(岩波書店、九二年五月刊)である。「世界」誌上に、九〇年一〇月号から九二年三月号にかけて断続的に掲載されたものだ。校門圧死事件を描いた「閉ざされた回路」は、私が生まれて初めて書いたルポである。誰からも取材方法を伝授される機会のないまま、そもそもルポとは何かも知らぬまま、神戸から帰って一晩で書き上げた。おかげで規制概念に、とらわれなかった。当時はまだ、管理教育が諸悪の根源だとマスコミの人々は決めつけていたのである。そんなスローガンだけの「問題意識」では、学校をめぐる事件や事故は絶対に解けない。管理教育批判をしていた人たちは、今度は管理の対極にある「学級崩壊」を目の前にすると、呆然と立ち尽くすほかなかったのである。
 「高校」を取材していると、その相変わらずさに比べて、むしろ「大学」のほうがダイナミックに変わり始めていることに気づく。こうして同誌九三年三月号から一〇月号まで、「大学の現在」を連載することになった。これは『<検証>大学の冒険』(岩波書店、九四年一月刊)として出版された。
 この二つの書物は、何度か増刷を重ね、いったんはその役割を終えたようにも思える。けれども、校門圧死事件現場のごく至近距離内で今度は酒鬼薔薇事件が起き、高校中退者が一〇万人を超え、高校はますます多様化し、大学は良くも悪くも改革の嵐の中に今もある。品切れとなってから、逆にこの本を読みたいといってくれる高校生や大学生が増えてきてしまった。記者諸氏からの問い合わせも、皮肉なことに、新刊のときより最近のほうが格段に多くなった。
 むしろ今、読んでもらいたい。私も、そう願うようになった。かつての読者は、ほとんどが高校と大学の先生だった。今度は高校生と大学生に読んでほしい。「時代の波」をかいくぐった連作ルポである。今なら、ちょっとは驚いてもらえるのではないか(笑)。不思議なことに、現状分析に基づく予想も、現時点から見てまったく外れていない。だから一字一句、修正はしなかった。
 いったんは流通から消えかけた二つの書物が、こうして甦ることになった。北小路書房の関一明さんのご尽力による。
 合本としたのは、私の強い希望でもあった。二つは、分かちがたく呼応している。だからといって、ずいぶん分厚い書物になってしまった。ご寛恕いただきたい。一言でいえば、<背伸びをしに大学へ行こう>。それが合本のメッセージである。普段、本を読まないと難詰されがちな高校生や大学生にも、だから本書を通じても、ちょっと背伸びをしてもらいたかった。もともと学問は、おもしろいはずのものだ。そのためには「背伸び」が必要だと思う。「見栄」といってもいい。「背伸び」や「見栄」こそ成長の原動力ではないかと私はひそかに考えている。
 序章は、未発表の書き下ろしである。日本では、中学での学習暗記力がほとんどすべて「その後」を決めてしまう悪夢が続いているかに見える。しかし、抜け道はいくらでもある。大道が作られていることを嘆くより、大道があるからこそ秘かに抜け道を知る者のハピネスとスリルは増す。
 これは評論ではなくルポだから、ずっと以前に学校をおえた人たちにも、体験的に読んでもらえそうな気がする。ということは、書物に描かれた世界との距離がとりやすく、それだけ厳しい読者の目を期待できる。
 本書は、日本の高校や大学を、こきおろすために書かれたものではない。教育現場の 「内」と「外」との対話を開始するためにこそ、事態の深層に迫った。誰のための、何のための高校、そして大学なのか。どこへ向かおうとしているのか。岐路に立つ高校−大学の現在を、しかと見きわめていただきたい、と思う。

                      一九九九年 秋  
                                 日垣 隆

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