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日本につける薬

kusuri.png 日本につける薬
実業之日本社

定価:1,400円(税別)

重症日本につける特効エッセイ
本書は全国の書店またはamazonなどのネット書店でお求めください




編集者が付けてくれた帯のコピー

右も左も○○だらけ!

 責任放棄
 旧態依然
 情報閉鎖
 思考停止
重症日本を"治す"
特効エッセイ【医薬部外

【本書の効果・効能】
下記疾患の摘出・生検・照射および症状の緩和

中年男の知的空間欠乏 だらだら長時間会議 「ああ、そうですか」インタビュアー  大企業致命的失敗症候群 老人の自閉的プライド ヘンな教祖様 公共福祉の暴走 被 害者非難学 明治憲法下の遺物:内閣官房機密費&警察民事不介入 参議院アンケート 機関説 失言連発政治家 キレる前の処方箋 暴力のメカニズム 自由放任と責任放棄 の混同 公金横領・金銭感覚麻痺公務員 安心と便利を旅に求める若者 悪いのは「社 会」...じゃあ、「社会」って誰? マスコミ・ヒステリー現象 大嘘つきの好戦家 続 出する心神耗弱による無罪 食中毒は化学毒より怖い!? 絶滅するマイスター 無思 慮・無原則な親 幼稚な自己中心主義 経済不況と大人のエゴの犠牲者



其の一 給与生活
 自宅に書斎を
 会議は無駄!
 雑務能力
 質問力の衰退
 成功譚ではなく失敗に学ぶ
 当社規定により優遇?
 希望をつなぐ

其の二 生老病死
 避妊は近代最大級の問題
 普通の生活
 おじいさんの孤独
 脳死と脳生
 ヘンと過剰と迷惑
 被害者学の不幸

其の三 我々の代表
 機密費と秘書給与
 参議院なんか要らない
 毒をもって毒を制す
 地方の闘い
 防衛庁のジレンマ
 政治家の言葉
 新しい世論の形成
 どんな社会を?

其の四 読み書き力
 電子メールがファクスを抜いた日
 パソコン市場は中級者に冷たい
 メルマガ論
 日本人の「日記」考
 検索の落とし穴
 書評の条件
 自分を知るための新書
「考える」ために「書く」

其の五 少年少女的犯罪
 ゲームとしての殺人?
 キレる前の処方箋
 少年事件を公開させる法
 暴力とカウンセラー
 家族の幸せ

其の六 銭金の問題
 アブク銭と愛人
 確定申告の日
 カジノ経済の末路
 東京にカジノ?
 明けない夜はない
 夢とお金

其の七 旅の教育力
 なぜハワイなのか
 チップ考
 運動会と日本人
 かわいい子に旅を
 座席予約の陥穽
 観光業クライシス
 修学旅行の謎

其の八 崩壊
 近くて遠い国
 頭痛のタネ
 隣国での餓死を「蔑視」するのか
「金王朝」の近未来
 報道のイデオロギー
「週刊金曜日」問題
 学校崩壊なんかしていない
「社会」って誰だ?
 良書取次の倒産
 政党時代の終り

其の九 捏造
 ナチ「ガス室」はあったのか
 歴史教科書と変節
 精子半減は真っ赤な嘘
 大げさな二〇〇〇年問題
 二〇〇〇年問題の狼少年たち
 報道が「本当」を招く
 亡命と難民

其の一〇 暴力
 どこが"速報性"なのか
 対イラク戦争の怪
 戦後イラクへ
 当のイラク人は
 誤解を正す
 世界の殺人罪
 スポーツと頭髪
 児童虐待

其の一一 安全確保
 牛と日本人
 消費者の危機管理
 新しいテロリズム
 日系人不在のペルー報道に異議あり
 五感ではなく一二感を!
 日本人とペット

其の一二 テレビ的
 長野オリンピック座談
 スポーツ選手のタレント化!
 新聞スクープの衰退
 衛星時代のジレンマ
 五輪と日の丸
 日本的コメンテーター
 スポーツ新聞の危機
 四字熟語的性格

其の一三 見栄と恋
 経済を救う見栄と技術
 男のお洒落
「見られる」強み
 中年の恋
『ダディ』が読まれた理由
 老いらくの恋

其の一四 大人になる
 子育ての要諦
 判断力の涵養
 即断と熟考
 失敗と責任
 最悪の事態
 逆境と順境

あとがき
其の一四 大人になる

《子育ての要諦》


 子育ての要諦は何か、と問われることがよくある。羞恥心を教えることだ、 と私は答える。もちろん、それは子どもが成人するまでの、最低限の目標であ る。

 電車内での化粧や携帯電話や性的類似行為、会社内での無責任社員の跋扈を 見るにつけ、この「最低限」にすら失敗している親たちが日本中に溢れている 事態は、改めて指摘するまでもない。羞恥心は、生き方であり文化である。し たがって、学校で教師が教科書を使って口頭伝授できる次元のものではない。 封建制という文化強要システムがなくなったのだから、その代償として、相応 のエネルギーを注ぎ込まなければならない時代に、私たちは生きている。

 羞恥心とともに肝要なのは、責任とは何かを教えることである。およそ責任 を問われる行為には、取り返しのつかないものと、取り返しのつくものとの二 種類があることを、骨の髄まで知らしめる義務が大人たちにはある。言うまで もなく、取り返しのつかない行為の筆頭が、人の命を奪うことだ。

 日本人の同年齢は百数十万人おり、十代で殺人者となるのは毎年百人前後だ から、確率統計上は「まずありえない」と言ってもいい。が、「取り返しのつ かない」行為とは、日常的には例えば、親に頼まれて家電店やコンビニでビデ オテープを買ってきたり、親の不在時にある番組をビデオに録画したりするよ うな場面でも元来、鋭く問われなければならない。
 前者(未使用のビデオを買う)を忘れても、取り返しがきく。後者(頼まれ て番組を録画する)は、ほとんど取り返しがきかない。だから、一見似たよう なこの二つの「頼まれごと」でも、問われる責任の大きさは著しく異なってい ると教え込むのは、子育ての要諦にほかならないのである。

 何でもかんでも「忘れたら叱る」無思慮な親や、何をミスしても「全く叱ら ない」無原則な親がゴマンと存在するのは残念ながら事実だ。そのような親は、 わが子が、殺人の数千倍の率で起きる集団リンチその他の共犯者となる事態を、 あらかじめ覚悟しておいたほうがいい。これは、『少年リンチ殺人』(講談 社)で描いた事件を含め百余の加害者親子(一見もちろん普通の親子)を取材 してきての揺るぎない確信である。

 おおよその目安として、小学校を卒業する頃までには、たとえ親が頼んでお いたビデオを撮り忘れるという一見瑣末と思えることでも、それが「取り返し のつかない」行為である限り、多大なエネルギーを使って叱咤する必要がある。 ここで叱咤というのは、同じことを繰り返さない方法論を子に獲得させるとい う意味だ。「今度やったら承知しないからね」などと言うだけで、結局のとこ ろそれを見逃し、また同じことを何度繰り返しても、「いいかげんにしなさい よ」と小言をぶつける程度しかできない現代日本の親たちは、確実にしっぺ返 しを食らう。子どもが悪事の共犯者になってしまうか否かの分水嶺は、集団暴 走を途中で降りたほうが、親にきつく叱られるよりマシと思えるかどうかの一 点にかかっているからである。

 子どもが何かを「忘れる」ことは日常的に大いにありうる。前述したとおり、 私が「叱る」と言っているのは、忘れたら怒る、ということでは全然ない。そ うではなく、忘れない力量には個人差があるので、その能力や頻度に応じて、 「忘れてもいいような仕組みをつくる」ことにエネルギーを注ぐ、という意味 である。前述の例でいえば、自分が必ず通る場所に「*時から***を録画す ること」などとメモを貼り付けさせておく、というような工夫をさせるだけで いい。その程度のことは、失敗の修復に要するエネルギーに比して、実に万分 の一程度で済む。「忘れない」は成人してからも仕事の主軸を形成する。
 そこで肝要なのは、判断力である。人生を左右するこの判断力を子どもに身 につけさせるには、どうすればいいか。それは次項で。


《判断力の涵養》

 日本における子育て論の大半は性善説に立っているので、役に立たない場合 が多い。褒めて良いところを伸ばしてやればスクスク育つ、というような性善 説を前提にしてしまうと、うまくいかない場合に、すぐ挫折して放任主義に宗 旨替えするしかなくなる。

 上司の部下に対する接し方と同様、そもそも子育てや教育場面で、褒めるの がいいか、叱るのがいいか、という設問ほど空しいものはない。「育てる」と いうのは相手を一人前にする構えと技のことだ。まず、終点を設定しなければ、 何かを褒めるも貶すもない。ありうる設定としては、成人か、社会に出るとき か。終点を曖昧にした子育ては、ただの依存性同居と化す。

 親元を去るとき、何が必要か。最低限、二つある。自立については前回述べ た。自立とは、おのれの責任を他人に転嫁しないことだ。もう一つは判断力で ある。

 先ほど示唆しておいたように、褒めるとか叱るというのは方法に過ぎない。 説得や恫喝や強制や交換条件も同様である。何を伸ばすために、そのような諸 方法を駆使するのか。究極的には判断力だろう。誰かの指示がなくても、一人 で取捨選択をする覚悟のことだ。
 では、判断力を涵養する方策はあるのか。
 私はあると思う。

 例えば、小学校一年生になったら、定期的に学校図書館から本を借りてこさ せる。「毎日」を目標にする。大事なのは、子どもの根性や性格ではなく、 「育てる」側の繰り返しである。機械的にやる。努力も必要ないし、そこには 失敗もない。なぜ失敗がないかといえば、選択肢としては「借りてくるか借り てこないか」しかないからである。忘れても穴埋めができる方法論を考えさせ ることこそ「躾」の要諦であると、すでに前回述べた。もし借りてこなくても、 それは失敗ではない。周囲の子どもたちは、そんなことはやろうともしていな いのだから。

 点数向上運動に「勝つ」のは、よく知られているように、ほんの一握りの子 どもにすぎない。学年で三〇位なら二〇位をめざし、平均点が取れない子なら 平均点を、オール1ならせめて一つだけでも3を、となる。その果てしなき欲 望の結果は、おそらく断念だろう。

 誤解してもらっては困るのだが、本好きの子を育てようというのではない。 そのような願望は点数向上運動と同じで、九五%の確率で失敗に終わる。図書 館から本を借りてくるのは、あくまで判断力の涵養のためだけに行なう。だか ら「読まなくていい」と明言しておく。

 最初は、何を借りてきていいかわからない。だから例えば、荷物にならない よう軽い本を選ぶ。でもよく忘れる。あんまり親がうるさいので、「じゃあ」 入り口の棚の上の端から日替わりで持って帰る。そのうち、「せっかく持って 帰るのだから、おもしろそうなものを」となる。もちろん、そうならなくても いい。年平均二冊とかしか日本の子どもたちは本を借りないのが現実だから、 図書館では三分以内に選べなければ、給食や帰宅の輪に乗り遅れる。そのあた りを、うまくこなす術も体得せざるをえない。

 迅速な判断力というのは、このような訓練を続けないと伸びない。そして、 人生における判断とは、実はその内容ではなく、速さが問題となる。長く悩ん だ末どちらかを選んだとき、他は放棄せざるをえないのだから(両方選べるな ら悩む必要はない)、その判断が正しかったかどうかは永遠に検証できない。 できるだけ早急かつ的確に選んで、その選んだほうの道でベストを尽くす。そ れが優れた判断力の内実である。
 ところで、なぜ図書館の本がいいのか。「九年間毎日」に相応しい選択肢が 揃っているのは、学校では図書館くらいしかないからだ。


《即断と熟考》

 対イラクの査察問題が国連の最大テーマになっている間、米英が武力行使に 踏み切る可能性と日本の対応について国会で質された小泉首相と川口外相は、 「仮定の問題にはお答えできない」と繰り返すのみだった。二〇〇三年三月一 三日、自ら招いた四党首との個別会談で小泉首相は、米英が戦争を開始した場 合の日本の対応について、「その時点で考える」と言い放ち、「その場の雰囲 気だ」とまでおっしゃった。
 学芸会の出し物について話し合っているのではない。いや、小学生だって、 「その時点」や「その場」を待たず、それなりに事前の準備をする。

 さて、ここで問題にしたいのは"アホでマヌケな"人々のことではない。私た ち誰にもありがちな思考習慣についての省察をしておきたいと思う。
 かつて多摩大学の学長であった野田一夫氏が、その開学準備段階で、教授陣 を他大学や企業からヘッドハンティングするに際して、「即断できなかった方 にはこちらからお断りした」と私に話されたことがある。今から一〇年以上前 のことだ。

 その翌日から、私はあらゆる仕事の依頼に即答するようになった。相手によ く驚かれることがある。現在に至るまで続くことになる毎週の長期連載も、提 案がなされた〇・一秒後に「いいですよ」と答え、私にとっては未知だったラ ジオやテレビでのかなり重い負担のレギュラー依頼にも即断してきた。

 ここでタネ明かしをすれば、実に造作もない話である。
 文筆業者である私に、どのような仕事の提案がなされるかは事前に、ほぼ完 璧に予想することができる。むしろあらかじめ、そのような構えをしておかな いと、全体の整合性を図れず、その日暮らしとならざるをえない。せめて一〇 年後のビジョンから推し測って、現時点ではどのような選択肢がありうるかを 常に認識しておけば、自滅へと至る取捨を無自覚にすることは避けられる。即 断しないと、相手のゆとりある時間を奪うことにもなる。

 難しいことを言っているのではない。一億円での要人狙撃や、一〇万円で洋 服の仕立てを私に依頼してくる人はいないだろう。テレビドラマの脚本依頼や 大学教授の誘いや子どもの学校のPTA何とか委員あたりの要請は、ありうる。 だから、断るか、ある条件以上なら引き受けるかを、あらかじめ熟考しておく ことができるし、実際すでにしてある。離婚の可能性や、子どもが犯罪に走る 可能性についても、あらかじめ念頭においておくくらいのことをしないと、そ のような方向に少しでも行きそうな気配を感じることができないし、したがっ て予防策を講じることもできない。

 春先には、転勤の内示に右往左往している人も少なくない。右往左往しても おかしくないのは、あなたの会社に転勤という前例や可能性がなかった場合だ けである。そういうとクールすぎると思われるかもしれない。しかし、突然の 内示にうろたえ二者択一を前に「ああでもないこうでもない」と迷い最終日に 突入してゆくのと、あらかじめ様々な可能性について熟慮しておき、いったん 内示されたら即断して新境地を切り開くのと、いったいどちらが賢明か。

「うちの子に限って」とかbは考えても仕方がないAましてや「その時点で考え る」や「その場の雰囲気だ」は、熟考の放棄であり、戦略的思考の著しい欠落 である。戦略的思考というのは、ものごとは自己の願望によってではなく、相 手の出方によってこちらの行動が変わってくる、という認識にほかならない。 その欠落は、危機管理ができていないのと同じであり、おのれの願望を現実と 混同するのは幼稚な自己中心主義である。


《失敗と責任》

 裁判員制度が「必要」は六三%だが「やりたくない」も六一%という世論調 査(二〇〇三年九月一四日の共同通信記事)には、毎度のことながら、無責任 という言葉を想起せざるをえない。

 ロクに考えたこともない新制度に賛否を求めたり答えたりするのは、いいか げんに止めたほうがよい。少なくとも「無関心」または「よくわからない」と 答えるか、「やりたくないがやむをえない」という項目を設けるべきだ。陪審 員制度にせよ裁判員制度にせよ、任命された市民は結審するまで会社などを休 む義務を負うのは当然の前提なのだから。

 必要性は認めるが自分は関わりたくない、という態度は、現代社会を襲う無 責任現象の典型である。その一方で、拉致問題のように、自分が当事者ではな い場合に限って、被害者意識を共有しようとする傾向が、ここのところ日本人 の間で強まっている。
 こうした無責任な気分の蔓延は、とりわけ評論家や政治家では常態と化して 久しい。

 バブル経済の真っ只中でバブルを煽り、本業をおろそかにしても土地投機に 走らない企業を無能呼ばわりしておられた長谷川慶太郎先生や、コンピュータ 二〇〇〇年問題で日本経済は壊滅するとの恫喝をなさっていた舛添要一先生を 始め、ごく近いところでは、二〇〇三年秋の「小泉再選は一二〇%ありえな い」と自信たっぷりに託宣されていた福岡政行先生エトセトラ。皆様、お元気 ですかぁ。「もし阪神が優勝したら裸で御堂筋を歩いてやる」と言うくらいは、 まあかわいいものだ。

 専門分野の予測を正反対に外したのなら、なぜ外れたのかを充分に省察かつ 公表することなしに、同じ座に居座り続けることは醜悪である、という世論が この国には欠落している。発言の当事者は、かつての自信満々の予言を、本気 で忘れてしまうかのようである。
 責任をとる、とは何か。それは、落とし前をつける、ということだ。落とし 前とは、失敗をしたときの後始末である。

 私は物書きになりたてのころ、新聞に連載していたコラムのなかで、江戸時 代の油問屋について触れ、それを過去形で書いてしまったことがあり、たった 一人だけだけれども、いまなお看板を継いでいるという方から新聞社に強い抗 議が寄せられたことがあった。
 連載の担当者と私は謝罪に赴いたが、許してもらえない。先方が私に向かっ て、「どうやってこの責任をとるつもりだ」と叱責されたとき、私は「この連 載を降り、謝罪記事を載せてもらったうえで、書く仕事は一生やりません」と 申し上げた。
 本心を言っただけなのだが、先方は、寛恕しただけではなく、むしろ私を励 ましてくれた。私は当時、二九歳だった。

 二九歳のちんぴらライターにできることが、不惑を超えた自信満々家たちに できないわけはないだろう。いや、若いからこそ、失うものがないからこそで きたのだ、と言われるかもしれない。一般論としては正しいが、自分はやりた くない、という意味なら、この原稿の振り出しに戻ってしまう。

 そこで私は、こう考えることにした。
 落とし前をつけるのが、加齢や地位向上とともに困難になりがちであること は、たぶん本当だろうと思う。そのことは自覚しておいたほうがいい。が、歳 を重ねれば重ねるほど、体験知も豊かになる。それに例外はない。体験知が豊 かになるというのは、小さな失敗を通じて致命的な失敗をしない可能性を広げ ることと同義なのである。それでも、もし「やりたくないが必要なこと」に当 面してしまったら、躊躇せず潔く責任を全うしよう。
 それが大人になる、ということの内実なのだから。


《最悪の事態》

 いつの間にこれほど阪神ファンが増えたのかはさておき、久々の明るい話題 として阪神優勝があった。経済効果が六千数百億円という(ややマユツバの) 試算もあり、実際、例えば阪神百貨店の株価は半年あまりで三倍近く値を上げ た。

 大震災時に最もダメージを受けた私鉄だっただけに、関西人特有の莫迦騒ぎ にも寛大な目が注がれていた、のだと思う。道頓堀川への飛び込みに対しても、 テレビ各局はそれを煽ることがないよう自粛を申し合わせ、商店街の人々も府 警もそれなりの努力をした。
 が、多くの人が密かに懸念していた最悪の事態は、ついに起きてしまった。 道頓堀川に何度か飛び込んだ酔客が、遺体となって発見されたのである。

 私の出身高校では、かつて最終夜のファイアーストームが文化祭の華だった のだが、事故死者を出してしまった翌年から、その行事は廃止されてしまった。 同じことが、道頓堀川への飛び込みをめぐっても起きるだろう。全国の公園か ら、箱型ブランコがほぼ全面的に撤去されたのも、似たようないきさつからだ。 小中学校から焼却炉が消えたのは、ダイオキシン騒動への過剰反応だった(詳 しくは日垣『それは違う!』文春文庫を)。

 私たちは、こうした「ゼロか百か」の発想と、そろそろ絶縁すべきときに来 ている。無関係な人にとっては確かに、道頓堀川やファイアーストームその他 は、どうでもいいことだろう。しかし当事者にとっては、一八年ぶりの、ある いは一年に一度の愉楽なのである。愉楽の全面禁止は、北朝鮮化への道にほか ならない。
 道頓堀川の事故に関して言えば、五三〇〇人に飛び込みを形式的に禁止しつ つ黙認するよりも、酔客にだけは飛び込ませないという実質的なルールが必要 だったのだ。死亡事故が再び起きないファイアーストーム、大けがを防止する ブランコ(指導と技術改善)、ダイオキシンが発生しない焼却方法を、私たち は志向すべきだった。小中学校から焼却炉が撤去されたのは環境対策のはず だったが、おかげで教育現場が自らゴミ問題と向き合うことがなくなり、子ど もたちが実地にダイオキシン問題を考える機会も奪われた。

 事故が起きるまでは無為無策で、いったん事故が起きると全廃してしまうと いう「ゼロか百か」では、多くの文化は死滅してゆくほかない。これに代える 発想は「Win−Winの法則」と呼ばれている(というか私がそう呼んでい る)。
 要するに、良いところを二つともとる、という方法だ。それを実現しうる背 景には技術の進展がある。例えば、ある番組を見たいが同じ時間帯に重要な会 議がある、という場合、かつてなら「ゼロか百か」でしか対応できなかった。 が、今なら録画しておけばよい。海外の諸都市を結んでのバーチャル会議も現 実化している。ブランコや焼却炉に関しても、技術的かつ教育的に解決しうる 問題となった。

 ここで確認しておきたいのは、最悪の事態は、最悪の事態を想定しないとこ ろに起きがちだ、という点である。先ごろ名古屋市で不幸にも起きた立てこも り後のビル爆発火災事件でも、気化したガソリンが密閉空間に充満した際、背 広の上着を脱ぐ程度の静電気で爆発が起きうるという化学のイロハを、警察や 消防や現行法が想定していなかった点が事態を最悪化したのは疑いえない。

 現行法上、炎が確認されない段階での消防活動は、自治体の長が許可しない 限り実行できないことになっている。この自縄自縛に柔軟性をもたせ、すでに これまで何度も同様の事件が起きているのであってみれば、気化したガソリン を中和する技術開発をこそ急いでおくべきだったのである。


《夢とお金》

 憧れていた職業につく人は、いったい、どれくらいいるのだろうか。さらに そのうち、やりたい仕事だけ選んで生計を立ててゆくことができるのは?
 人生そんなに甘いものじゃない、という声が聞こえてきそうである。

 かつて創作を志す者は、貧乏とどう折り合いをつけるかが最大のテーマだっ た。本業だけでは立ち行かない。内職(アルバイト)をするか、ひとまず就職 してみるか。樋口一葉は針仕事に精を出し、駄菓子屋を営むも失敗して極貧の なかで肺結核に倒れた。夏目漱石ですら、帝大(年俸八〇〇円)と一高(年俸 七〇〇円)の講師を辞め東京朝日新聞社(月給二〇〇円)に就職したのであり、 筆一本で食えた時期はない。
 与謝野鉄幹が主宰し晶子が活躍した『明星』の登場によって、今風に言えば 「自らメディアをもつ」端緒が切り開かれるも、人件費を捻出し続けることす らできなかった。

 このような事情は、つい最近まで変わらない。が、この数年でダイナミック に変容した。歌手や漫画家をとりまくデビュー環境も、例外ではない。
 例年秋には、各地でコミックの同人誌展示即売会が催される。東京ビッグサ イトで開かれる日本最大の「コミックマーケット(略称コミケ)」には数十万 人もの来場者があり、合計五万九〇〇〇サークルもの参加がある。私も各地の イベントを訪ねてみた。

 以前は「おたく」の集まりとしてのみ注目を集めてきた嫌いのあるコミケだ が、夢の実現という視点でこれを眺めてみると、ずいぶん様相は異なってくる。 素人が漫画を描き、印刷して製本し、それを売る。人気のあるものには、たく さんの買い手がつく。五〇〇円で一万五〇〇〇部を売ってしまうものもある。 実費を一割とすれば、実収入は六七五万円。同じ二十代前半のサラリーマンの 年収を軽く超える。年に何冊も出す"素人"もいる。

 大手の漫画雑誌に連載をもつプロでも、彼らより収入が低い場合も少なくな いばかりか、よく知られるようになったことだが、大手の縛りはきつく、他の 媒体で自由に描くことはまず許されず、好きな漫画を好きなように描くことも、 ありえなくなっている。
 私は二〇〇三年九月から年末にかけて、各地で路上の歌い手たちを追ってみ た。かつてなら「プロ歌手になる」夢を追う若者は、明治の作家たちと同様に、 本業とはまったく関係のないアルバイトで衣食住費を稼ぐか、貧乏のどん底に 堪えつつ、いつか来るはずの白馬の王子様(レコード会社のプロデューサー) を待つほかなかった。
 だが今は違う。

 パソコンで、自ら作ったアルバムをCDに複製することもできるようになっ た。原価は五〇円程度である。路上で歌いつつ、自らCDを売る。そんなスタ イルが今や普通になった。インディーズ(独立系のプロダクション)とは異な る。むしろ究極の自活である。
 五〇枚を目標にする若い路上の歌い手も多いのだが、二〇〇〇円のファース ト・アルバムを四カ月で一三〇〇枚売った二一歳もいた。それだけで、経費を 差し引いた実収入は一カ月あたり六〇数万円になる。

 ちんぴらライターである私の場合、年間一万円の有料メールマガジンに、創 刊一年で千数百人の読者がついた。たとえ大手から干されても、これならやっ ていける。しかも、何の制約も受けずに自由な言論を発表する場を自ら手に入 れたことになる。大げさに言えば、明治の作家が夢見てかなわなかった道だ。

 選挙になれば、「不景気からの脱却」をどの陣営も訴える。
 だが、高所でマイクを握る政治家には、自立した個人の創意など見えていな いようだ。彼ら自身が派閥や政党や後援会に、がんじがらめにされているから である。
                   (『日本につける薬』第14章より)

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