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戦場取材では食えなかったけれど

senjou160.jpg 戦場取材では食えなかったけれど
幻冬舎新書
定価:740円(税別)
戦場ジャーナリストたちの矜持と知恵に迫る

本書は全国の書店またはamazonなどのネット書店でお求めください




目 次

戦場取材では食えなかったけれど

序章 戦場に行かなかった父から子へ
日垣隆

戦争
葬儀
病床
火事
家族
弔辞

第一部 職業としての戦争取材

第一節 食いつめたらカタギに戻り
加藤健二郎×中川昌俊×日垣隆

戦場に行けるなら傭兵でもよかった
世界で起きていることを自分の目で確かめたい
一日一〇ドルで楽に暮らせた中米の戦場
セルビア人の死体を撮っても売れない
戦地で常に銃撃戦が起きているわけではない
取材内容より情報発信手段を持っている人が勝ち
YouTubeがあればジャーナリストはいらない?
なぜバグパイプで食っていけると思ったのか
人はなぜこんなに戦争に惹きつけられるのか
スキルが身につくことと飽きることは表裏一体
戦場ジャーナリストにとっての結婚
食っていくための取材は楽しいか?
電話レポート一分で一五万円稼げたイラク戦争
仕事をすればするほどお金がなくなったイラク戦争後
「命を取られることに比べれば......」という感覚
要領がわかってしまうと取材はつまらなくなる
なぜフリーランスか? なぜカタギか?

第二節「ペンかパンか」の発想を越えて
中川昌俊×日垣隆

執筆から割り付けまで全部自分たちで
仕事に就いたらブログを書きたくなくなった
取材は楽しいが書くのはつらい
パンがなければペンの自由も確保できない
知識、人脈......自分の力をつけるための修業

第三節 愉快な隙間ビジネス生活
加藤健二郎×日垣隆

一枚で何回も稼げる写真の撮り方を考える
マスコミデビューはニカラグアの新聞
戦場よりはるかに怖かった金貸し業
一週間で三〇万円儲かったコピー代行業
家庭教師派遣から愛人バンクの電話取次まで
物欲・金銭欲がないので、いつも「ノリ」
戦争取材も「道楽」だった

第二部 戦争ジャーナリストに未来はあるか

第一節 ベトナム戦争は終わっていない
竹内正右×日垣隆

三カ月で帰国する予定が一〇年に
日本の報道とは大きく異なっていた戦地の実態
二年目からは写真を売って食いつなぐ
歴史的瞬間の写真もわずか二〇ドル
中立国のはずのラオスは戦場と化していた
仏軍、米軍に利用され続けてきたモン族の悲劇
ソ連の関与も明らかになってきた
インドシナとモン族の記録を英語で発信したい

第二節 ポル・ポトのシンパと呼ばれても
馬渕直城×日垣隆

実は穏やかな表情をしていたポル・ポト
ポル・ポトに三回会った世界でただ一人の外国人
クウェート侵攻後、取材の自由はなくなった?
戦争取材を志す人がいなくなる危機
拉致されてもいいから解放軍を取材したかった
写真をすぐ現金で買ってくれたアメリカの通信社
アメリカ側でも共産側でもない第三の目として
運がいいから生き延びただけ
戦争の現場で何が正義かを判断する難しさ

第三節 真実を伝えるという矜恃
馬渕直城×竹内正右×日垣隆

ポル・ポト派の兵士に拉致され銃殺寸前
ポル・ポト派による「二〇〇万人虐殺」は事実か
異なる証言・証拠を最終的にどう判断するのか
国連はジェノサイドと認定している
被害の数字を大きくしていく「意図」の存在
自分はどちらを正しいと信じるのか
過去、新聞は戦争の道具に利用されてきた
「九・一一アメリカ陰謀説」をめぐって
食えなくても最低限の矜恃は守りたい

長いあとがき
日垣隆
裏表紙の画像はこちら



■本文(序章・長いあとがき)の立ち読みはこちら■

本書に登場する戦場ジャーナリストたちのプロフィール(登場順)

加藤健二郎
1961年1月、兵庫県尼崎市生まれ。小学生の頃から軍事オタクで、夢は「軍人になること」。中近東の紛争国で軍事施設の工事をしていた日本の建設会社に入社。1988年、退社。フランス外人部隊、アメリカ陸軍に志願するが不採用となり、内戦中の中米に向かう。1989年、戦場ジャーナリストとしてデビュー。1992〜1999年の長期にわたり、ユーゴスラビア戦争を取材。その他、湾岸戦争、チェチェン戦争、イラク戦争、アパルトヘイト時代の南アフリカ、北朝鮮などを取材。国内では自衛隊、在日米軍を取材。
2003年バグダッド陥落の瞬間に立ち会ったのを最後に、戦場取材を卒業。2004年1月よりバグパイプ奏者として活動開始。軍事雑誌を中心に、週刊誌、写真誌、経済誌、月刊誌など数多くの雑誌に寄稿。著書に『戦場のハローワーク』(ミリオン出版)、『戦場の現在』(集英社新書)、『自衛隊のしくみ』(日本実業出版)、などがある。

中川昌俊
1979年、兵庫県生まれ。大阪大学法学部在学中、9・11の映像に衝撃を受けたのをきっかけに、世界で何が起こっているのかを自分の目で確かめたいという思いが強くなる。大学卒業後、フリーランスとしてアジアプレスに所属する。戦場ジャーナリストとしてイラク、韓国国境を取材するが、消費者金融の限度額を超えてしまったことがきっかけとなり、堅気の世界での就職を決意。現在は業界紙の新聞社の社員記者として、取材と締め切りに追われる日々を送る。

竹内正右
1945年、旧満州吉林省生まれ。父は旧ソ連に抑留されて死亡。2年間の日本人難民収容所生活(こ蘆島)の後、1948年、静岡に引き揚げる。1970年、早稲田大学卒業後、ベトナム戦争の現場を自分の目で確かめたいと思い、インドシナ半島に入る。1973年、ラオス王国軍モン特殊部隊の兵士と出会う。以後、10年間にわたり、ラオスでの取材を続ける。1979年、ベトナム軍のカンボジア侵攻を取材中、ポル・ポト軍に拘束される。帰国後も、スリランカ暴動、フィリピンのアキノ暗殺、中国・天安門事件、戒厳令下のチベット、ダライ・ラマ、北アイルランドの国民投票などを取材。1989年から91年には、「モン」を追いかけて、数回にわたり、アメリカ、ラオスを取材。著書に『ドキュメント・1975・4・30』(共著、パルコ出版)、『モンの悲劇』(毎日新聞社)、『ラオスは戦場だった』(めこん、英文名Laos as Battlefield )がある。NHK・BSドキュメント「ケネディの軍隊――モンとバンパオ将軍」(99年)に証言者として登場。「ダライラマ亡命への21日間」(09年)を企画・取材。

馬渕直城
1944年、東京都生まれ。1972年、国際基督教大学教養学部社会科学科を卒業。大学在学中、ピュリッツァー賞を受賞したホルスト・ファースの写真に衝撃を受け、同じ時期に岡村昭彦『南ヴェトナム戦争従軍記』を読んで感銘し戦場カメラマンを志す。1972年、ラオス南部にてベトナム戦争初取材。このときの写真が「毎日グラフ」に掲載され、戦場カメラマンとしてデビューを果たす。1975年、現地に残った唯一の日本人として、プノンペン解放を取材。1976年、タイ・カンボジア国境でポル・ポト軍に8日間の拘束を受ける。1979年、98年には、ポル・ポトへのインタビューに成功。2度にわたりポル・ポトをインタビューした記者は世界で馬渕氏だけである。現在はカンボジアを中心としたアジア取材を続けている。著書に『ドキュメント・1975・4・30』(共著、パルコ出版)、『わたしが見たポル・ポト』(集英社)、『NEWS』(共著、韓国アジアネットワーク)がある。世界のニュース、ドキュメンタリー番組の制作にも多数関わる。

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