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少年リンチ殺人――ムカついたから、やっただけ《増補改訂版》

shounenhousi1160.jpg 少年リンチ殺人――ムカついたから、やっただけ
《増補改訂版》

新潮文庫
定価:514円(税別)


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目 次

少年リンチ殺人――ムカついたから、やっただけ《増補改訂版》

はじめに

第一部  少年リンチ殺人

第二部  また少年が殺された

解説  飯田芳弘氏(学習院大学教授)

全ての目次はこちらからご覧いただけます
■立ち読み■

第一部  少年リンチ殺人
  終章 知られざるまま

冷水

 あれは長野オリンピックを一年後に控え、長野新幹線もまだ開通していない平成九年三月のある土曜日のことだった。JR上野駅から特急あさま号に乗って三時間、さらに長野駅で私鉄に乗り換え二十五分ほどかかって須坂駅に着く。
 百五十人も入れば立ち見が出るその会場は、開会前すでに定員をオーバーし、もちろん地元のマスコミ全社が駆けつけていた。主催者から私にも案内状が届いていたのだが、週末に家族のいる長野市の自宅に帰るという個人的事情がなければ、このような集いには出席しなかっただろうと思う。
 須坂市の中学一年生男児が、「あの四人にいじめられていた、ぼくは死ぬ」と走り書きしたメモをズボンのポケットに遺し、自宅で首をつって自殺したのは平成九年一月七日のことだ。「あの四人」というのは、二ヵ月あまりが経ったその集いの時点でも、まったく特定されておらず、学校も教育委員会もそれを「事件」と認識しようとはしていなかった。三月のその集会には、自殺した生徒の父親だけでなく、新潟や愛知などで近年いじめによる自殺で我が子を失った父親たちも参加して発言する予定、と案内状には記されていた。
 土曜日の午後一時半に開会が宣言され、次々と予定されていた当事者たちが体験や学校批判や教育委員会批判を口にし、マスコミ各社は興奮気味にフラッシュをたき続けたものの、三時からはテーマごとに分散会を簡単にもち、そのあと会場から自由に発言をつのるというスケジュールが発表されると、あっという間に報道陣はすべてきれいに立ち去ってしまった。テレビ局は夕方のニュース番組に間に合わせたいということらしい。新聞各社も足並みを揃えたかったのだろう。全国どこでも見かける日常的取材風景である。
 終了予定の四時半が近づき、司会者が、会場からの発言はあと三人くらいにしたいといったとき、最前列に座っていた女性が挙手をし、指名を受けてマイクをもった。
 私はといえば、教育体制批判やら社会批判に退屈し始めていただけに、その慟哭(どうこく)の発言に冷水をあびせかけられた思いがした。
 「こんにちは。池田町の宮田と申します。きょうの会にぜひ来たいと思いましたのは、実はわたくしどもは、この六月二十九日で満三年になる事件で子どもを失いました。きょう壇上から話された方々のお子さんたちは、いじめによる自殺という形で亡くなってしまわれたのですが、うちの子は他殺で、十代の少年たちに殺されて亡くなっていきました。いよいよこれから、という子どもたちが、他人のいじめや暴力によって命を絶たれる事件が、こんなにもたくさんあるなんて......。二度と再びこういう事件は繰り返さないでおこうと、そのたびにいわれているのに、また何度も繰り返されているのですね。
 わたくしは今でも、いえ、事件から日が経てば経つほど、悔しくて悲しくて切なくて......。いじめで自殺された子をもつ親御さんたちのお気持ちも、本当に切なく受けとめましたが、でも、きょうのような励ましの集いは、わたくしどもの事件の場合には一度も開催していただいておりません。地元のマスコミも、まったく取材してくれません。
 ですから、同じ長野県内に住んでおられる方々にも知られていませんので、簡単に事件のあらましを申し上げますと――」
 私はメモもとらずに、マイクをもつ女性、宮田元子(もとこ)さんを凝視していた。幸い、もう少しで止めかけていた録音テープは、まだ回っている。これが、その後二年間にわたって数百本を録音することになる取材テープの最初の一本になった。

慟哭

 「わたくしどもの高校一年になった子が、近所の高校二年生たち八人に、『あいつはちょっと生意気だ、ムカつく』と彼らの雑談のなかでいわれ、電話で『反省しろ』とすごまれました。話したこともない間柄なのに、その一週間後に今度は『電車のなかで先輩にあいさつしなかった』という理由にもならない理由で、また彼らは、溜り場から電話をかけてきたのです。弟にかかってきたその電話に兄のほうが出て、兄は謝る必要なんかない、と答えたようで、彼らはわたくしどもの二人の兄弟を夜の校庭に待ち伏せして、殴る蹴るの暴行を長時間にわたって加え、兄のほうが殺されてしまったのです......。
 事件のあと、生き残った弟のほうに聞いてみました。『お母さんは信じてたんだよ』って。息子はいいました。『俺たちは何もしてない。集団の暴力がいきなり外から来たんだ。自分たちに全然原因がなくても、いきなり外から襲われるってことがあるんだから、そんな言い方はしないでほしい。そういう突然の暴力を避けるために、悪い奴らが堂々と歩いているのに、俺たちに日陰を歩けってことか。俺たちは何もやってない』って。
 ある人が、生き残った息子に、こんなことをいいました。『電話で反省しろ、謝れっていわれたときに、兄さんもすいませんてちゃんと謝っておけば、こんな事件は起きなかったはずだ』と。でも、そんなばかなことがあるでしょうか。何も悪いこともせず迷惑もかけていないのに、なぜ謝らなければならないのですか。殺されたのは、謝らなかった子どものせいだ、というのでしょうか。理不尽な暴力を加え続けた少年たちのせいではないのでしょうか。
 意識を失って、体中から、鼻からも口からも大量の血を流し、呼吸も止まりかけている息子をその場に一時間以上も放置して救急車も呼ばず、そのかわり現場から自分たちがいた証拠を一生懸命になって消し去ったのです。いったいどうして、こんな少年たちが育ってしまったのでしょうか。どうしてこんな死に方をしなければならないのでしょう。
 これほど悲惨な事件が起きたにもかかわらず、わたくしの地元では、何の動きもありません。加害者の親も少年たちも、まともに謝罪一つしていません。高校が三つにまたがっていたという事情もあるのかもしれませんが、学校も無関係と無関心をよそおっています。自主退学させて、それで全部終わりです。何一つ教訓も引き出されていません。どうして? どうしてこんな理不尽なことが続くのですか」
 会場は、発言者のすすり泣く声を、静かに包む。
 そのとき、私は使命感に燃え始めていたわけではない。これほどの事件が、同じ県内に住む人々にさえ三年近くも知られずにきた、というのは本当なのだろうか。信じられぬ思いだった。
 私の心臓は高鳴っていた。私が二十数年、抱え込んできた何かが、爆発しそうだった。

十七歳

 地元の記者に、まず確認させてもらおうと思った。けれども全体会が終わる三時ちょっと過ぎまで二十数人もいた報道陣は、もう誰一人として会場には残っていなかった。
 慟哭の発言が終わってから、私は右隣に座っていた男性に尋ねてみた。
「事件のこと、ご存じでした?」
 男性は首を横に振った。
 前の席に座っていた四十代の女性たちが私の声に反応して、お互いの顔を見合いながら、自分たちも初めて聞いた、という素振りをした。
 私は、動揺していたのだ。たまたまこの事件を私も知らなかったというよりもむしろ、このような事件は実は頻繁に起きているのに一般には知らされない仕組みになっているのではないか、という考えが頭をよぎったのである。
 閉会して、あわただしく会場がかたづけられ始めるなか、急いで私は宮田元子さんの前に立った。
 亡くなった稔之君の写真を見せてくれた。家族が一緒に写ったものだった。十数枚の、どの写真にも笑顔がある。
「十七年と二百五十九日しか生きられなかったんですよ。息子はいつも、やりたいことが、いっぱいあるといっていました」
 私は、かるがるしく事件の背景を取材させてくださいとは、いいだしかねてしまった。いくつかの資料をいただいた。
 なぜこのような事件が起きたのかは、時間をかければ私にも調べられるだろう。
 加害側の少年たちに会うことは可能なのだろうか。全員が町で今までどおり元気に生活しているという。全員が? 今までどおり? 事件からまだ三年も経っていないのに?
 私のなかで、何かが音を立てて、本格的に動き始めた。加害者八少年のうち誰も刑罰を科されていない、という事実に、私がずっと胸中抑圧してきたはずの何かが強烈に反応してしまったのだ。
(後略)

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