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「松代大本営」の真実

matsusiro.jpg 「松代大本営」の真実
講談社

《永久保存特別価格》1,000円(税別)


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目次
序 章 遭遇
第1章 ゼネコン軍需
第2章 神々の移転
第3章 無駄な穴
第4章 消せない記憶
第5章 占領者の眼
第6章 破壊せよ
終 章 伝言
補 章 文献資料案内

序章

第一号発破
 半世紀前、一九四四年一一月一一日一一時、第一発目の爆破音が信州松代の山中に鳴り響いた。気温はニ度、快晴だった。
 午後三時二〇分、本部に集った軍人たちはラジオ放送に歓声をあげている。「大本営発表、在支米航空部隊はB29八〇機内外をもって本一一月一一日一一時、九州西部および済州島に来襲、雲上より盲爆ののち遁走せり」。だが実際には、中国から飛びたったB29によって北九州海軍航空基地のレーダーが爆破され、しかも第二六師団の輸送船五隻がすべて、マッカーサーの軍隊によって沈没させられていた。土曜日、仏滅であった。
 日時の選定は単なる偶然ではない。戦争続行を賭けた大本営その他の地下壕移転計画には、記念すべき、つまり忘れえぬ日時が選ばれたのである。計画および指揮にあたった人々の証言によれば、漢数字の十一は吉を思い起こさせ、予定地の一つ皆神山の名称も神秘的と感じられ、信州は神州に通ずるとさえ強弁された。
 神聖なるこの大工事は、戦艦武蔵や大和の建造と並ぶ最高軍事機密だった。武蔵と大和が米軍に撃沈されていたことも国民には敗戦まで秘匿されたのだが、松代を中心とする地下壕への移転計画は、日本の敗戦を前提として進められた点に特異さが際立っていた。武蔵の沈没(四四年一〇月二四日)が、松代の掘削工事開始とほぼ同時であり、大和の沈没(四五年四月七日)が、松代での天皇関連工事の開始と前後しているのも、単なる偶然ではない。日本帝国の陸海両軍は、そこまで追いつめられていた。
だが一一月一一日に轟いた爆音は、古参軍人にとっては当時、実に感無量な祝砲と聞こえた。これより二六年前の一九一八年一一月一一日、第一次世界大戦が日本を含む連合国を勝者として終結していたからである。つまりその日は「戦勝記念日」だったのだ。


  シェルター
 ひるがえって一八世紀の半ば以降、地球上に戦争が絶えた年はない。空からの爆撃が主力をなす今世紀の戦争では、参謀本部は絶対安全地帯から指令を発することが常道となっていた。しかも半世紀前の世界大戦では、本土決戦さえ辞さなければ「負けない戦争」がありうるのだという可能性が示唆された。五〇年代の朝鮮戦争でも、六〇年代から七〇年代にかけてのベトナム戦争でも、また九〇年代のフセインの軍隊でも、地下壕を駆使した徹底抗戦による「負けない戦争」は現実のものとなった。
 第二次世界大戦は、侵略と植民地主義を初めて悪と断じた「不戦条約」以降、最初の国際戦かつ情報戦となっただけではなく、航空戦の除幕ともなった。戦車および爆撃機の登場によって、防戦にはシェルタ-が必須となる。小さな防空壕から大規模な地下壕まで、シェルタ-の常態化という事態はとりもなおさず、防戦側にまわった陣営に対する無差別殺人の誘発を結果せざるをえない。平和と福祉向上を貫いてきたと思われがちなスウェーデンでは現在も、地下にシェルターのない民家のほうが珍しい。
 松代大本営は、立案者によれば「ドイツに学んだ」のだという。現存する大地下壕は、歴史の知識などなくとも、ただそこに立つだけで、人間と戦争と民族への思考をうながす。その総延長は一万メートル説から一万三〇六九メートル説まで、いずれにせよ日本最大規模とされてきた。けれども、一九七五年に建設省が三三九四カ所の防空地下壕を集計しており、神奈川県が提出した文書には横須賀海軍工廠の総延長は一万三〇九〇メートルとある(神奈川県「県内防空壕の埋め戻し要望書」)。
 僕ら素人は、何メートルあります、と説明されれば、はいそうですか 、と感心するしかないのだが、このたび、舞鶴山、象山、皆神山の三カ所に掘削された地下壕の設計図を専門家に「測量」してもらったところ、その総延長は一万三〇九九メートルとはじきだされた。この数字は奇しくも、七五年の建設省への報告と一致するのみならず、戦時中に築城本部防空科の責任者が把握していた数字とも一致する(浄法寺朝美『日本防空史』)。本来、比較すべきは同一時期の同一基準であるべきだとすれば、松代の三山の地下壕は、日本の敗戦時点ですでに最大規模だったのである。
  しかもその後、長野市松代町以外にも善光寺平の二〇キロ四方にわたって地下壕が連動して掘削されていたことが判明し、名誉なことなのか不名誉なことなのか、マツシロは疑いえぬ「第一位」に踊りでた。



  マツシロ
  カタカナで「マツシロ」と表記する場合には、半世紀前の要塞籠城計画が、松代町にある三つの山に掘られた地下壕だけに限られない、という事実に基づいている。
  長野市松代町にとって、マツシロという呼び名が一般化するのは、やや戸惑いがあるかもしれない。武田信玄の築いた松代城があったこの城下町は、真田邸をはじめ文武学校や武家屋敷でも知られ、佐久間象山や松井須磨子の出生地でもあり、多くの旧跡には事欠かない。けれども明らかに、この町には大本営移転にまつわる「記憶」が共有されている。被害と加害と、戦争と観光と、迷いと誇りと、真実と噂とが錯綜した「記憶」の断片。
  この町で最初に、案内書として『松代地下大本営』という小冊子が誕生したのは一九五六年のこと、実質的な発行元は松代町役場と松代商工会議所であった。「松代町には川中島の古戦場を初めとして......古を今に語るべき多くの史跡や名勝がたくさんあるが、最近の話題は何といつてもこの地下大本営跡である」と、小冊子は冒頭に書き記している。
  町役場は翌年、舞鶴山の地下壕入口に案内板の設置さえ、率先して行なった。
  「松代地下大本営跡(松代地震観測所)--太平洋戦争の末期、軍部が本土決戦最後の拠点として極秘のうちに大本営軍司令部、参謀本部、政府各省等をこの地に移すと云う計画をもとに昭和19年11月に着工、翌20年8月15日の終戦の日まで凡そ9ケ月の間、当時の金額で2億円(現在に換算して約600億円)の巨費と延300万人の労働者を動員、突貫工事を持って構築し終戦時に予定の7割5分が完成したのである(後略)」
  この内容は、現時点からすれば幾多の誤りが含まれており、のちに研究者や活動家が誤謬を鵜呑みにする元凶ともなった案内板なのだが、ここではまず、記述の中に「天皇」や「朝鮮人」が見当らない事実だけを指摘しておこう。


  案内板
  この案内板にクレームをつけたのは唯一、地下壕を一九四七年以来「廃物利用」してきた気象庁地震観測所だけである。一九六五年のことだ。記述の内容に異議を挟んだのではない。案内板の表題を、「松代地下大本営跡(松代地震観測所)」から「気象庁地震観測所(松代地下大本営予定地跡)」に変更するよう、松代町が合併したのちの長野市に強く要望し、事実そうなった(『気象庁地震観測所技術報告 第1号』)。
  観測所と大本営との主従が入れ替わった顛末だけでなく、ここではとくに「予定地」の文字が加わった事実に注目しておきたい。あくまで予定地であったのだ、という主張は誰もが反論できぬまま、現在に至ってしまったからだ。予定地にすぎないという発想は、ここに移ってくる「予定」の人々に、その意志がなかったのだという主張につながる。意志がないばかりか、実際には使われることもなかったという誤解が、これまで連綿と続いてきた。あるいはまた戦時中に米軍が、この場所を知っていたに違いないなどという発想はもちろん、戦後に詳細な調査をしたはずだと実証を試みる人さえ皆無だった。「軍部の狂気」という過去にのみ責任を押しつけ、お得意の水にすべてを流してしまった、かに見える。
  現在、いわゆる「松代大本営」を目指して多くの見学者が訪れるのは、九〇年の秋から長野市が管理することになった象山の地下壕である。公開に先立ち、長野市は入口の案内板を、やや書きかえた。全文を掲げてみる。概要理解の一助にはなるだろう。
  「松代象山地下壕――第二次世界大戦の末期、軍部が本土決戦最後の拠点として、極秘のうちに、大本営、政府各省等をこの地に移すという計画のもとに、昭和十九年十一月十一日午前十一時着工、翌二十年八月十五日の終戦の日まで、およそ九ケ月の間に当時の金額で二億円の巨費と延三百万人の住民及び朝鮮人の人々が労働者として強制的に動員され突貫工事をもって構築したもので全工程の75%完成した。ここは地質学的にも堅い岩盤地帯であるばかりでなく、海岸線からも遠く、川中島合戦の古戦場として知られているとおり要塞の地である。松代地下大本営は舞鶴山(現気象庁地震観測所)を中心として皆神山、象山に碁盤の目の如く掘抜き、その延長は10㎞余に及ぶ大地下壕である。――長野市」
  「住民及び朝鮮人の人々」の文字に、やや虚しさを感じる。のみならず、いくら短い文章だとはいえ、一二カ所もの事実誤認があるのは、これまでの研究成果からして、やむをえないことなのだろうか。市民運動を担うと自負する人々も、地下壕を案内するさいの概要説明は、ほぼこの案内板と大同小異である。
  数字がすべて、でたらめであるだけではない。六人が構成メンバーである大本営(最高戦争指導会議)を移すのか、それとも陸軍の参謀本部と海軍の軍令部の全体を移すのかさえ曖昧であり、しかも例えば「政府各省等をこの地に移すという計画」と聞いて、なぜ見学者は簡単にうなずいてしまうのか。当時でさえ各省とも、それぞれ数千人単位で官吏が存在していたのである。あるいはまた説明の中で、「皇居」やら「NHK」の移転についても触れられるのだが、それはあたかも、「戦争末期にNTTの電話でJTBに予約しておいた指定券を持ってJRに乗った」と表現するようなものだ。皇居もNHKも戦後に登場する呼称であり、戦前戦中はあくまで宮城および日本放送協会だった。


  一一月一一日
  さて、高校生が集団でこの地下壕に入った記録は一九八三年が最初である。信濃毎日新聞で大きく報じられるのだが、壕を管理していた関東財務局から不法侵入を難じられて始末書をとられている。実は長野の高校生が、修学旅行先の広島で被爆県の高校生から「松代大本営」について質されて返答できなかった。広島の高校生は、日清戦争時の「広島大本営」について学んださい、「松代大本営」を聞き及んでいたのであろう。
  松代大本営の保存運動は、別の高校生たちが沖縄への修学旅行にゆき、巨大な壕で慟哭の歴史を学んだ八五年に始まる。当時の長野市長が「松代昭和史跡として後世に伝えたい」と応じ、翌年には最初の市民団体も産声をあげた。九〇年からは毎年、一一月一一日を記憶にとどめる慰霊の集いが在日朝鮮人らの手によって開催されるようになる。九〇年一〇月には長野市によって地下壕のうちわずか五〇〇メートルが、ほとんど観光開発のノリで一般公開され、年間一〇万人もの見学者が訪れるようになった。松代大本営にかかわる活字や映像が大量に発信されはじめるのも、八〇年代半ば以降のことである。
  ただし、新たに入手した第一次資料と裏づけ可能な証言のみによって全体像を徹底的に再構成していこうとする本書の立場に従えば、従来の説には基本的な記述からして幾多の誤謬が含まれている。行政いわく、「十一月十一日午前十一時に着工......当時の金額で二億円」。学者執筆の事典いわく、「11月11日工事を開始......朝鮮人労務者2000人」云々。名指しで批判するのは、この場合あまり意味のあることではない。少なからぬマツシロ本から未確認情報をとったら、いったい何が残るのか、といっていいほどであるからだ。個人著作ならいざ知らず、事典や案内板で堂々と無根拠な説を垂れ流すべきではあるまい。


  一一月一一日
  だいたい、この日をもって工事開始とするのは単純な思い違いであって、陸軍大臣が正式に発令するのは九月二三日、そして当初の目標だった一〇月四日にやや遅れて着工に移るのは一八日である。九月二三日と一〇月四日については軍による記録が遺されており、一〇月一八日に関しては村役場の日誌や松代警察署の記録にも明記されている(清野村『工事関係綴』など)。西松組関係者が残した記録によれば、その第一陣が松代に到着するのは九月一九日、土地買収が強行されるのは一〇月四日(西条村『工事関係書類綴』)、中部配電㈱に長野県知事が配線のため工事現場への立入りを許可するのは一一月一日(「長野県指令河第五三八号」)である。
  こうした第一次資料が存在しないのは逆に一一月一一日のほうなのだが、しかし直接確認できた二〇人を超える関係者がその日を正確に記憶しており、第一号発破が轟いた日として銘記される意味を損ねるものではない。
  一見些細なことにこだわるのは、言葉の選択次元の問題としてではなく、軍の発令より前に朝鮮人がすでに松代へ連行されてきていた事実や、第一号発破以前に測量や土地買収や手作業での掘削労働が開始されていた事実を、ややもすれば見落とされがちであるからだ。二億円説や二〇〇〇人説にも根拠など何一つ存在しない。
  B29が首都に初めて飛来した四四年一一月二四日に、宮城(現在の皇居)では賢所の神体も地下仮殿に動座しおえ、侍従長室や内大臣府も一一月一〇日までに宮城内での移転を完了していた事実は、松代に第一号発破が炸裂した日の意味を考えるうえで示唆的だ。


  複合移転
  では、松代大本営という呼称はどうであろうか。すでに定着したネーミングに、ここでけちをつけようというのではない。それはもっと本質的な問いとしてある。
  松代の地下壕は、政府諸機関や日本放送協会などの一部移転としての遷都計画、軍の中枢機関移動としての大本営要塞計画、これにともなう通信網設置計画、宮城の緊急疎開としての離宮計画、そして三種の神器の防御計画、これらが複合していた点に注意したい。したがって「松代大本営」という呼称は、ともすれば一面しか見ない危険性が内在する。 大戦末期に陸軍省の主導によって強行された工事ではあったけれども、首相も、のちには宮中関係者も、大元帥も、通信施設に関しては海軍も、それぞれの思惑から松代への移転に合流した。あまりに隔たった思惑の中で、しかし一糸みだれず合意していたのはただ一点、明治以来の国体を護持することだった。若い世代にはなじみのない国体は、むろん国民体育大会の略称ではない。君主制か共和制か、という問題だ。大辞林によれば「天皇を倫理的・精神的・政治的中心とする国の在り方」である。連合国に無条件降伏したはずなのに玉音放送の終戦詔書には、ちゃっかりと「国体ヲ護持シ得テ」と挿入されていた。明治以来の教育勅語にも「国体ノ精華」の文字がある。
  遷都して一億玉砕まで戦いぬき国体を精神的に護持するか、離宮できずとも国体の象徴たる三種の神器だけでも護持するのか、和平交渉をより有利になすため王将を要塞にて防御するか、これ以上の死体累積には耐えられぬゆえ降伏して国体の精華に努めるのか、という思惑がそれぞれに交錯しつつ、国体護持の思想そのものに異論はなかった。
  こうした背景をながめてみれば、松代大本営という名で「大本営」に矮小化するのは、明らかに正確さを欠く。以上の史実を踏まえたうえで、あえてここでは通称としての「松代大本営」を使っていきたいと思う。
  この呼称問題に関してもこだわらざるをえないのは、しかし、それだけの理由ではない。なぜ松代なのか、という疑問が残るのだ。つまり、いわゆる松代大本営とは、松代にある三つの山を中心としながらも、ほぼ善光寺平の一帯二〇キロ四方にもおよぶ遷都・離宮・大本営籠城の計画であったのだから、「松代」とだけ限定するのは正確ではない。大本営に限っても最低、最高戦争指導会議室(御文庫附属室)のほかに通信基地と飛行場は必須なのであり、事実、それらの命令や予算は共通している。いや確かに、計画当初は松代周辺が拠点であったのだし、軍は松代の頭文字をとって「マ工事」やら「松代倉庫新設工事」と呼び、しばしば「松代要塞建築」とも称していた。地元町村の日誌には「防空倉庫」や「東部軍マ工事」の文字が盛んに登場する。
  けれども現在の長野市松代町は当時、松代町、清野村、西条村、東条村、豊栄村、寺尾村、西寺尾村からなっていた。むろん工事現場になったのは松代町だけではない。おそらくこの一町六村が、ともに信州真田松代藩の城下町としてあり、一八七一年の廃藩置県で松代県となったのであってみれば、あたり一帯を「松代」と呼ぶことに不思議はない。
  では、大本営の上に松代の名が冠せられたのは、いったいいつからなのか。


  第一報
  一九四五年一〇月二六日の信濃毎日新聞は、当時二ページしかなかった新聞の裏面大半を使って「謎は解けた松代の横穴」と報じている。紙面には「迷宮」「豪華な地下殿」の文字が踊る。これが第一報であった。なぜ信濃毎日がスクープしえたのかを問う前に、どうして第一報までに戦後二カ月あまりも時間の経過が必要だったのか、と勘繰ってみるほうが、どうやら有益そうである。
  まず注意したいのは、「謎は解けた」がもつ意味の背景であろう。記者たちは、なぜ一〇月二五日まで待たされ、そしてその日にいったい誰から、「それは国土決戦の総指揮をとる大本営を始め、参謀本部、軍令部および各省の最後の拠点だつた」と説明を受けたのか。僕にはそれこそ、ずっといままで謎だった。だが、その「謎は解けた」。
  一〇月一〇日づけで工事の実務責任者が、マッカーサー宛に報告書を提出させられていたのである。「マックアーサー司令部より長野県庁へ調査要求中松代工事の分照会に対し別紙の通り松代警察署を通じ回答せしに付報告す」と(東部軍管区経理部長野地区施設隊長「幡東経長施第三九号」四五年一〇月一〇日)。
  いわゆる松代大本営に、戦後の最も早い時期に調査を試みたのは、実は米軍(GHQ/AFPAC)であった。報道規制シフトを敷いたGHQが、戦艦大和と武蔵に続いて松代大本営の取材を解禁するのは、四五年一〇月二四日のことだ。翌日、大勢の記者とカメラマンが地下壕に潜り、GHQ立ち会いのもとで取材を敢行する。こうして信濃毎日新聞が第一報の栄誉を担う。記事内容は「進駐軍の調べで明らかになったこと」だったのである(『百年の歩み 信濃毎日新聞』)。
  ただし、「連合国軍隊の動静に関しては公式に発表せられたるもの以外は発表または論議せざるべし」と厳命されていた当時(「日本新聞規制ニ関スル覚書」四五年九月一九日)、松代大本営そのものの報道は解禁されても、米軍が調査した事実は実に半世紀にわたって知られることがなかった。本書の後半で、初めてその事実の詳細を報告したい。


  呼称の由来
  さて、全国紙の報道は、地元紙に一日の遅れをとる。毎日新聞は「大本営、各省の退避先」と報じ「長野の地下殿堂」と書いた。読売報知新聞は「一大地下都市ほぼ完成」として「大本営移転予定地」と記した。信毎や毎日や朝日が「七千人の朝鮮人労務者」としたのに、報知が「約七百人」と書いてしまったのは、通訳が聞き違えでもしたのだろう。
  いずれにしても「松代大本営」の文字が見当らないことが、ここでは肝要である。
  週刊誌で最も早く特集を組んだのは、「アサヒグラフ」の四五年一二月一九日号だった。「日本一無用の長物」と扇情的なタイトルをつけ、「長野県松代町の地下大本営」と命名している。現在の呼称に、だいぶ近づいてきた。
  月刊誌についても言及しておこう。「改造」の五四年一月号に、作家の中野重治が書いている(「配給米は残るか」)。文中には「天皇避難所工事」とある。実は「文●春秋」の執筆依 頼で坂口安吾が五三年七月三一日に檀一雄とともに松代の地下壕を訪れていたのだが、病没のため作品化はかなわなかった。ではなぜ中野重治が小説化の一番乗りを果たし、早い時期に「天皇避難所工事」と描写しえたのか。九四年になって初めて公開された重治の日記によって、その疑問も氷解した。中野重治は、ごく短期間、松代の象山で工事に動員されていたのである(『中野重治敗戦前日記』)。あの当時、文筆業者である作家が、「家を作る」者と誤解されて地下壕工事にも動員されたという笑えぬエピソードが残されている。
  先を急ぐ。歴史研究者の朴慶植氏が月刊誌「新しい世代」に「機密防止のため数百名の同胞を虐殺したという松代大本営」という項目を立てたのは、六四年一二月号。その数行の文字に衝撃を受けて児童文学者の和田登氏がノンフィクション『悲しみの砦』を、雑誌「とうげの旗」に連載するのは七一年からであり、単行本になるのは七七年、そこには松代大本営の文字が度々登場する。マツシロを素材とした小説が単行本になるのは七五年、李恢成『追放と自由』が最初である。
  地元で最も早い時期に出版された小冊子は、前述したとおり『松代地下大本営』、刊行は五六年四月。「在日朝鮮人帰国協力会ニュース」に「信州松代の大本営」の活字が登場するのは五四年五月である。
  こうしてみれば、松代大本営ないし松代地下大本営の名が定着するのは、五四年五月以前であると考えられる。これ以降になると、用語に若干のずれはあるものの、例えば五八年発刊の『長野県警察史』には「大本営地下施設」、六〇年に公刊された藤田尚徳『侍従長の回想』にも「松代大本営」が、あたりまえのように登場する。
  では五四年以前に、いったい何があったのか。日刊紙すべてに当たってみよう。


  信州文化祭
  「松代大本営」と最初に明記した新聞は、米国流フォト紙としてGHQの肝煎りで誕生し人気を得ていた日刊サン写真新聞、五三年一一月七日づけであった。長野県上田支局が発信し、全国に向けてその第一面全部を飾っている。松代大本営が「信州文化祭にちなんではじめて一般公開された」とある。
  信州文化祭は、長野県、県教育委員会、松代町の主催により五三年一一月三日から八日間の日程で開かれた。当初は単に、「文武学校百年祭」および「佐久間象山九十年祭」として企画されたのだが、米軍占領下からの独立一周年でもあったことから話が大きくなり、総裁に林虎雄長野県知事が就任し、日本電信電話公社などが後援に馳せ参じることになった。こうして一一種ものイベントが立案され、その筆頭に「松代大本営予定地の一般公開」が企画決定されたのである。
  日本電信電話公社は、須坂市の無線基地と大本営予定地とを結ぶ五〇対の地下ケーブル施設や交換機を設置するなど、例の工事にもゆかりが深い(『信越の電信電話史』)。長野局では四三年二月から軍部への電話供出運動を呼びかけており(「信濃毎日新聞」四三年四月一七日)、四五年五月から交換機を「軍事通信施設の新増設用に利用する」ため取りはずしが奨励され(『長野県史
通史編第九巻近代三』)、これらは結果的に松代工事での三五〇台に補填された(東部軍管区司令部「東部作命第二二三号」四五年六月一八日) 。
  信州文化祭では、最初は単なる「大本営予定地の公開」とされていたものが、企画の練りあげ段階で、その名に松代を冠したらどうかと若い職員が提案し、そのまま町長の決済を得る(松代町『当直日誌』)。松代町が「松代大本営」の名をデビューさせたのは、だから五三 年一一月三日、全国に報じられたのは一一月七日が最初で、翌日から他紙も追いかけた。 松代町は、五一年に二つの村との第一次合併をし、さらに五五年には三つの村と第二次合併をするのだが、それぞれの合併にさいして新しい町名の由来を説明するくだりが興味深い。五一年には「その地形が自然に一区域を成して居るばかりでなく松代藩十万石の城下町に属する」として松代町を改めて名乗るのだが、信州文化祭のあった五三年をはさんで五五年の合併にさいしては、「松代の名は大本営跡も連想し、全国的に名高いことから合併推進協議会において満場一致決定した」と(松代町「長野県知事への合併申請書」)。
  なお、こうした根拠をもった命名とは違って、偶発的に「松代大本営」の名が公文書の中に登場する点については第三章で述べる。


  歴史記述
  ところで、戦後世代は学校教育の中で現代史を学ぶ機会はない、としばしば指摘される。けれども、戦前世代とて現代史をまっとうに学んだ形跡はないし、ましてや戦後史に通じているとも思われない。敗戦直後の即席民主主義教育の洗礼を受けた者たちも、皇国史観にのみ忠実だった偏向教科書に墨を塗らされ、戦前戦後を通じて保身という点で一貫していたとしか思われぬ自称進歩的教師の豹変によって、誠実な歴史観とは無縁でありがちだった。
  しばらく前、日本の歴史教科書が侵略を進出などと書きかえたという誤報に基づいて、例えば韓国政府が抗議を敏速に行なったのはいいとしても、そのさいに、日本が態度を改めないのであれば韓国では反日教育を強化せざるをえないと通告してきた事実がある。このとき韓国政府は、みずからの歴史教育観も、国家の都合で主観的な改竄を行なう性質のものであると、はからずも告白したかたちとなった。皮肉な話ではある。
  僕はといえば、教科書に対してそれほどの幻想を抱く気にはなれない。換言すれば、歴史が全面的かつ万人にとって「正しく」書かれるなどという事態を想定できない。歴史記述に対する論争は、疑いもなく有意義だとは思う。しかし、例えば侵略か進出かをめぐって火花を散らす者たちが、ともに教科書を誇大妄想的に信仰しつつ暗記教育の地平から脱却する道を、およそ真剣に希求しているとは、とうてい思われない。
  マツシロに関する記述はといえば、歴史教科書には一つも登場していないだけでなく、歴史年表にすら見あたらない。あの戦争(開戦時に日本は大東亜戦争と呼称し、アメリカは太平洋戦争と呼ぶことを要請し、世界共通認識では第二次世界大戦と概括され、欧州では極東戦争などと呼び、中国との交戦を射程に入れて一五年戦争とかアジア太平洋戦争と称することが戦後日本では主張され、朝鮮半島と満州に関しては明らかな侵略であることから僕は一八九四年を起点とする日本帝国五〇年戦争または大本営時代と呼んでみたい、あの戦争)を概観する専門書にも、また天皇をめぐる論考でさえ、マツシロの記述は海岸でコンタクトレンズを見つけだすほどの希少さをともなう。他方で、松代大本営をテーマとする専門書や論文の類は比較的多い。いずれにせよマツシロは、戦時中の一事件、といった位置づけなのである。つまりマイナ-だった。
  地元で紡がれてきたマツシロ本の多くは、証言の垂れ流しか、限りなく無断引用に近い文献リサイクルの循環に陥っていた。大半は、地方史の発掘としてのみ語られてきた。本書で僕がなしたいことは、世界の枠組みで松代大本営を考える、という一点に尽きる。


  出会い
  マツシロはこれまで確かに、地方史的事件としてのみあった。おそらく長野市に生まれた戦後世代にとってすら、せいぜい跡地利用された気象庁地震観測所への遠足スポットでしかなかった。長野市松代町に育った若い世代でも、かくれんぼをするには怖すぎる巨大迷路、と思われてきた。戦時中すでに地元で成人していた世代にとってだけ、心の奥底に秘めておくべき忌まわしい記憶として、松代大本営はあった。
  僕が、初めてその存在を記憶にとどめたのは、八六年六月四日のことにすぎない。すでにマツシロにかかわるいくつかの書物を刊行していた児童文学作家の和田登さんが、編集者であった僕にある女性を紹介したいと電話があって、三人で夜、ホテル最上階の喫茶店で会った。和田さんは、その女性が走り書いた原稿の束を、僕の目の前に置きながら、実は、と語りはじめて、話をすぐに女性に譲った。その原稿は、和田さんも何冊かの本を出している東京の大手出版社に下駄をあずけたところ、かんばしい返事がもらえなかったという。
  僕は原稿に目を落とした。文章が下手だった。けれども背筋がぴんと張りつめるのを強烈に自覚せざるをえなかった。原稿は帰ってから読みます、話を聞かせてください。
  二時間半、僕は黙って山根昌子さんの独白を聞いた。不覚にも僕は泣いた。八月一五日に出版記念会ができるように、本をつくります、そう約束をした。徹夜して、原稿を読んだ。翌朝、山根さんの案内で松代の地下壕に入った。すべてを歩き通すのに、五時間がかかった。
  僕が勤めていたのは一五人ほどの小さな出版社だったから、営業兼出庫兼編集担当の若造でも月に一冊くらいの本を企画できた。社長に報告すれば、即座に許可をもらえる大らかさがあった。ただし、原稿書きや編集や装丁から書店配本(車に乗って自分たちで配るのである)に至るまで自分が直接担当せねばならない。そんなことは慣れっこになっていた。山根さんは新しい原稿用紙に向かった。章を進めるたびに文章が上達していった。
  三度目に山根さんの店を訪ね、二度目の原稿を受けとったその帰り道、喫茶店で読み終えてから乗った都電の中で、僕は編集者として最悪の体験をした。原稿を紛失したのである。三時間、探しまわって見つからなかった。模型店に電話を入れた。僕は辞職も覚悟していた。そのくらいは当然だと思った。責任をとる、というよりも、職業人としての適性を見限っただけだ。
  先ほどいただいた原稿を紛失してしまいました、僕がそう口にすると、電話の向こうで山根さんは実に実に大きな声で、笑ったのである。腹を抱えて笑ってくれたのだ。


  独白
  山根昌子さんは東京で模型店を経営しながら、子どもたちに笑顔を向けて生きてきた。機関士ガンダムが発売される直前に、大量の発注を済ませていた彼女の店には長蛇の列ができた。勘の鋭い人だったと、玩具メーカーの担当者はいう。何でも相談にのってくれたと、元少年たちは振り返る。
  彼女が胸中、避けてきたのは「大本営」という言葉だけではない。「朝鮮人」や「強制連行」や「トンネル工事」、そして「あいのこ」という言葉にも内心、激しく敏感に反応せざるをえなかった。それは、彼女の生の、原点だった。
  戦争が終わっても、一家の惨めさは変わらなかった。草をたきこんだ雑炊が毎日、食卓に並んだ。わずかばかりの米が手に入っても、それを近所の人に請われて、迷うことなく差し出す父。見知らぬ男を連れてきては食事のみならず、なけなしの衣類まで分け与えてしまう父であった。娘たちの、ひもじさは募り、しばしば父と母とのあいだに激しいいさかいが生じた。
  近くの小学校に通うようになって、山根昌子さんは、校内でも帰り道でも正体不明の悪罵を投げかけられた。「あいのこ!」「ちょーせんじーん!」「はんとーじーん!」。小便を中に入れたネギを背中に投げこまれた。いちばん仲のよかった女の子が、お父さんの国へ帰るのだといって別れを告げにきた。詳しい理由や背景は、七歳の彼女にはまだ理解できなかった。初めて行く国なのに、なぜ「帰る」というのだろうか。
  六年生のとき、朝鮮戦争が始まった。父は、鉄くずを集めることで一家の生計を支えていた。密造酒づくりや闇屋もやった。警察の手入れもあった。母も、家族が食べていくためには、どんなにきつい仕事でもやった。だが中学卒業のとき、山根さんは進学を諦めねばならなかった。
  近くの外科病院に見習いとして働けるようになり、収入を得ながら看護学校に通う道が開けた。入学手続きには、戸籍謄本を添えなければならない。母に頼んだ。そのとき初めて、自分には戸籍がないと聞かされた。のちに彼女はひとり、上京する。出自ゆえに投じられる悪罵と邪険と差別とは、東京でも同じことだった。一九歳の春、家族と合流して父の故国に渡ることになった。長野駅から列車が出る直前、彼女だけ駅のホームに飛び降りた。こうして父と母と二人の妹は、彼女を日本に残して北朝鮮に向かったのである。


  再会
  山根さんは家族と離れて、新宿で生きてきた。会いたくとも、それはかなわなかった。 一九八三年の夏。模型店でレジの上に置いていたラジオから、彼女がこれまで避け続けてきた言葉が、続けざまに流れ出た。朝鮮人、強制連行、松代大本営。それが、和田登作『キムの十字架 松代大本営地下壕のかげに』との出合いだった。この本を読んで彼女は、父を恨み母を恨んできた、これまでの自分を恥じた。朝鮮人労務者として酷使されていた父は、戦後も家族と松代の飯場にとどまりながら、何も話してはくれぬまま、母と妹たちを連れて祖国に帰ってしまった。あれから二三年。孤独と惨めさの正体を、彼女はようやく見つけた思いだった。
  その直後、ひもじい生活を五歳から一七歳まで強いられたその土地に、二三年ぶりに立った。松代の、飯場跡。父はここで、松代大本営の掘削工事に働かされていたのだった。山根さんは地下壕の入り口に立って、会うべくもない父に詫びた。恨むべきは、あなたではなかった。壕の中から、死者たちの叫び声が、彼女の耳にはっきりと聞こえた。
  関係者の証言で綴られた新聞連載の中に、西松組松代作業隊長の談話があった。「ケガ人さえほとんどなかったのだから、よほど手ぎわがよかったわけだ」(読売新聞社『昭和史の天皇3』)。そんな、ばかな。真相を確かめるべく、隊長を訪ねた。すでに亡くなっていた。作業隊次長が松代町に健在だと聞く。「成人式を迎えた娘に、近い将来には結婚のこともございますから、できるかぎりの真実を伝えておきたいのです」。作業隊次長であった人物に彼女は訴えた。八四年一一月五日のことだ。
  松代再訪の三年後、山根さんは北朝鮮に向かう。訪朝団やテレビ局のバックアップもあって、奇跡的に家族との再会が実現する。母も妹たちも、二六年もの隔たりがあったとはいえ、元気そうだった。だが、父は......。
  「父さんは、白いお米のご飯とサバの味噌煮が食べたいなあっていいながら、死んでいったのよ」。すぐ下の妹が、そう教えてくれた。
  山根さんは、それから全精力を賭けて、マツシロの真実を追いかけはじめた。関係者と聞けば、どこへでも出かけていった。おそらくそれは、自分自身の存在を問う営為にほかならなかったはずだ。日本人による調査とは、およそ気迫が違っていた。


  アイデンティティ
  こうして彼女の半生記『遙かなる旅』は生まれた。その書物の表紙には、帯が縦につけられている。「松代大本営工事に従事させられた朝鮮人を父にもったひとりの女性 いわれなき差別とたたかいながら 北朝鮮に住む家族との再会を求めて海峡を越えてゆく」。僕は帯にそう書いた。山根さんは、できたての本を手にした八六年八月五日、ありがとう、と絶句してくれた。僕は会社に翌日、辞表を出した。
  山根さんは、『キムの十字架』に出合うまで、戸籍すらなかったゆえに進学も断念させられた、その貧しく虐げられた生い立ちへの恨みを、母と二人の妹たちを連れて北朝鮮に「地上の楽園」を求めて帰っていった父に、ずっとぶつけてきた。父たちの苦悩を刻んでいた『キムの十字架』は、国家と民族と戦争を問いつめる、あまりにも大きな課題を山根さんに背負わせたことになる。その問いの延長線上には、常に自己のアイデンティティが錯綜せざるをえない。わたしはだれなのか。
  気性が激しい、強引である、日本人に攻撃的だ、組織原理を尊ばないと、進歩的活動家や党派的教師から彼女への非難の声は陰で増幅されもした。だが彼女には時間がなかった。生き急ぐしかなかった。わたしはどうしてマツシロで育てられたのか。なぜマツシロにこだわらざるをえないのか。
  彼女の理解者の中にも、語り部であった数年間はよかったけれども、研究者じみてきた最近は首肯できかねる、という意見もあった。しかし彼女は研究者じみてきたのではない。マツシロの戦前と戦中と戦後のありかを、しかと検証せずには、みずからの存在証明ができなかった、ただそれだけのことだ。それだけのことを理解するのに、僕は七年もかかってしまった。


  遺言
  九三年の夏、すでに三カ月も入院生活を続けていた山根さんを見舞って、訊ねてみたことがある。もう七年も前、原稿紛失事件を起こしたあのとき、どうして笑ってくれたのですか。
  彼女は無言だった。
  ソウルで韓国人女性記者から、あなたの母が加害の側の日本人だったことをどう思うかと問われたときにも、内面をずたずたにされながら、とつとつと語りえたのは、どうしてなのでしょう。娘さんの結婚式でも、あなたが朝鮮人の血を引きついでいるという露骨な理由で、式に参列することを許さなかった人たちを、なぜ胸に秘め続けて寛恕できたのですか。
  もうそんなことは、どうでもよかった。痛みを背負い続けた人が、たとえ他者のほんの小さな痛みにも、敏感でないわけはない、ただそれだけのことだ。
  「そんなことより」と彼女はいった。手術のあと、かなり衰弱している、その気力をふりしぼって、彼女はいうのだった。
  「仕事、マツシロのこと、続けてほしい。どうしても調べてほしいことがあるの。なぜ日本側の資料まで消えてしまったのか、陸軍だけの独走だったのか、県はどう動いたのか、戦後はどう処理されたのか、本当にアメリカ軍までマツシロを無視したのか。だとしたら、わたしはいったいなんだったの? なんのために父を恨んできたの? どうやってそれを償ったらいいの? 悔しいよね。この仕事、バトンタッチしていいかな、ちょっと疲れちゃったみたい」
  一瞬、僕は言葉につまった。山根昌子という女性は、こんな弱音を吐く人ではない。彼女のいわんとするその意味を、僕は了解してはいけないと思った。励ますのだ、それしかないではないか。僕は、自分でも驚くほどの大きな声で、笑った。
  なにいってんだよ、まったく。主治医の先生からも許可が下りたっていうじゃない。個室に移ってやりたいことをやったほうが治療にもいいって。それに例のアメリカの資料だってもうすぐ届くはずだし、九月一五日から缶詰め状態になって本を書くって僕も約束したばっかりだしさ。山根さんも資料の総点検やらなきゃいけないんだし、うまいもん食べてさ、あと二週間後だぜ、九月一五日は。
  彼女は九月一四日、やすらかな眠りについた。
  この本を山根昌子さんに捧げる。

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