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ダダ漏れ民主主義―メディア強者になる

dadamore_160.jpg ダダ漏れ民主主義―メディア強者になる
講談社

定価:1,000円(税別)

2010年末のダダ漏れ現象をいち早く予言!

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帯 【表】
 
iPad日本上陸! うろたえずに「ダダ漏れ」を愉しむ技術
Twitterの実践的技術作法から、冤罪事件の読み解き方、質問力の身につけ方、読書会のすすめまで......。

帯 【裏】

あなたにも秘密がありますか。
 最近、それなりの経験者が集まって恋愛談義をやったとき、「どうやってケータイ履歴をブロックするか」という話題で盛り上がった。
 不倫相手からの着信音を変える、などというのはアホのすることである。では、どうするか。

      ――「不倫メールの隠し方に見る、超監視社会」より 


●ダダ漏れは、画期的な良薬なり
●結婚式と葬式とネット中毒
●電子書籍の衝撃は、電子レンジほどのものである(笑)
●大過ない人生と、挑戦的な人生。そしてTHIS IS IT
●走り始めると、なぜ無理をしてしまうのか
●待ち方の変容。または、10分1000円理容の感銘
●スーパーサイヤ人並みの質問力を身につけよう
●2010年代、パーソナル・インフラと会社の致命的問題
●モノからライブへ。憧れから体験と参加へ。この動きは止まらない

目 次

はじめに

第1章 ダダ漏れ民主主義とは何モノか
ダダ漏れは、画期的な良薬なり
ダダ漏れ民主主義へ。秘密主義を超えて、いざ、メディアミクス
結婚式と葬式とネット中毒
活字はどこまで崩壊するのか。あるいは、復興か?
キンドル日本上陸。買い方だけでなく、これで読み方も変わる
電子書籍の衝撃は、電子レンジほどのものである(笑)
現場で考える、現場を見る、現場で読む
「無人島でこの××」について、考えてみた
不倫メールの隠し方に見る、超監視社会
「黒船来襲」なんて、大したものじゃない!
 睡眠障害が急増中。けれども、これがやめられない
「フラット」な関係性へ。覚悟せよ、とんでもない事態も......
ネット空間に漂い続けるデジタルごみ。私事暴露が日常と化す

第2章 何事も体験しなけりゃ始まらない!
ダダ漏れ的な不思議なつながりもまた愉しからずや
指先だけで書く「予定稿」は本当に必要なのか?
せっかち派v.s.のんびり派
走り始めると、なぜ、無理をしてしまうのか
大過ない人生と、挑戦的な人生。そしてTHIS IS IT
待ち方の変容。または、一〇分一〇〇〇円理容の感銘
ツイッター中毒蔓延。つまり多くの人が寂しいのか
「友達がいない!」と、「おひとり様」の間
新旧メディアの共存としての、大読書会
ブック・クラブを私は、流行らせたいと思う
「孤独な読書」と「サロン的な読書」とは、まったく違う体験知
あの古典や名著を手に取らぬまま、読まずに死ねるか

第3章 メディア強者になる!
スーパーサイヤ人並みの質問力を身につけよう
創意工夫をなすための「制限」という魅惑
足利事件で忘れられた精神鑑定書の罪
拉致被害者の「遺骨」をめぐる日本側の錯誤
芸能人の覚醒剤事件も、裁判員制度の対象に
組閣時の日本式「正装」をめぐる、いくつかの疑問と不安
二〇一〇年代、パーソナル・インフラと会社の致命的問題
ツイッターの大ブレイクでメディアを手にした大衆
新聞社は、これからどうやって食っていくのか
モノからライブへ。憧れから体験と参加へ。この動きは止まらない

あとがき
はじめに――「ダダ漏れ」は日本の何を良くするのか

 政権を担当していた時代に公明党の冬柴鐵三幹事長が、民主党の岡田克也幹事長(いずれも当時)の発言に対し、顔をゆがめながら「あんなフランケンシュタインが言うことなんか、あてにならない」という趣旨の発言をした。

 与党の幹部として、あるいは名のある政治家としてカメラの前で「ダダ漏れ」してよい言葉遣いなのか。

 二〇〇九年七月下旬のことだった。その直後に、冬柴氏は総選挙で落選した。

 サッカー選手を引退した中田英寿さんが「自分探しの旅」に出かけ、各国の旅をずっと追いかけ続けたドキュメント番組の最後に、「僕は有名人でしょ。この子たちが有名人とこうやって接することで、貧しい子たちに憧れをもってもらってサッカーも楽しむキッカケを与えたいなあと思っているわけです」と真顔で話した。その貧しい子たちが「誰この人?」という表情をして走り去るのを、カメラは意図をもって視聴者に示したのだった。明らかに意地悪返しの術である。よほど、嫌な思いをしたのだろう、このスタッフたちは。

 二〇〇八年六月初旬の放送であった。

 これまでドキュメントは、書物でも放送でも、主人公を善人に描くか悪人に描くかしか方法を知らなかった、とさえ言える。その点で、小さなメディアの本音主義が、大メディアを少しずつ変えてきていることは間違いない。

 おおむね卑屈になった戦後の日本人は、公的な場において建前で生きてる場面が増えた。悪く言えば、陰口が大好きだった、と思う。

 ドラマや映画や現地での会話の観察でしかないけれど、アングロサクソンや中国人やインド人その他は多くの場合、激論をごく日常的に交わす。まるで本格的な喧嘩のように見える。にもかかわらず、いったん決定したら、その後はケロッとしている。目的は共通なのだから、良き結論に達するための激しい討論は、あまりに当然のことなのだろう。

 ところが日本の場合、選考過程や決定過程や審議過程が、密室化されてきた。外部の我々が調べようにも調べようがなかったのである。なぜなら、記者クラブに属して報じる側と、報じられる権力や官僚の側が、完全なる広報的お友達であったからだ。

 例えばアメリカも、ヨーロッパの国々と同様、施策や作戦が実施されたあと、公務員の守秘義務はない。

 日本では公務員はもとより、請われて委員に就いただけで準公務員として「守秘義務」を死ぬまで課される文章に署名捺印を求められる。やむなく引き受けてしまった委員の初会合で私は二度、「守秘義務って実際には何ですか」と訊き、そこに居合わせた数十人の公務員も、お偉いさんも、誰一人として説明できないという場面に遭遇した。それ以来、すべての役職依頼を断るようになった。アホらしいからだ。まともなことを、まともに発言し、結果を出そうとする委員は、彼らには不要なのである。

 これを官僚国家と言い、惰性とも言う。個々の官僚は優秀な頭脳をもちながら、何も考えていない。自分たちの描いたビジョン通りになれば良い。何たら委員会やら諮問機関など、そのための隠れ蓑にすぎず、アリバイづくりでしかなかった。

 議会に提出する分厚い資料の山――例えば郵政改革法案でも積み上げると二〇センチにも達し、あれほど生涯の目標として先頭に立っていた当時の小泉純一郎首相すら「多すぎて自分は読み切れなかった」とテレビ番組のなかでうっかり「ダダ漏らした」ほどだ。

 (後略)

あとがき

 縄文時代や弥生時代に生きた人々が、仮に平安時代や鎌倉時代に生きる末裔{まつえい}たちをタイムマシンに乗って見に行ったとしても、「何をしているか」を理解するのはそれほど困難ではないと思う。江戸時代の旅人が、大正時代や昭和の旅人を見ても、「何をしているかさっぱり分からない」ということはないだろう。

 しかし、昭和二〇年代までに亡くなった人にとって、二〇一〇年代の人々のやっていることは、ほとんど理解不能なことばかりではないか。古代人は、江戸時代に生きる人々の行動を理解できると思う。けれども、現代日本における一〇代二〇代が学校以外で「やっていること」の少なからずは、はっきり申し上げて俺にもよく分からん(笑)。

 カタカナ職業の全盛というのか氾濫というのか。実際には、仕事の大半が本当は一度で済むはずの「メールのやりとり」を数十回にも及んでいるだけだったり、例えば「会議中なう」という矛盾最大値の書き込みだったり。

 我々は古代洞窟壁画に感銘を受けるが、古代人はケータイの絵文字に目をむくことだろう。

 いや実際のところ、メディアについての本を書きながら、家電量販店に行けば「これ何?」というガジェット(小物類)が結構ある。店員に単純な質問をして、返ってきたオタッキーな答えを聞いたあとで、「あんたがいま話してたの日本語だったの?」と再質問したことさえあった。相変わらず嫌みな奴です。

 そのとき、最初から最後まで、店員が何を喋っているのか、本当に分からなかった。

 それはともかく――。

 携帯電話。パソコン。モバゲー。スイカ(西瓜ではなくカードのSuicaね)でのピッ。電子書籍画面のサッ。五〇インチの大画面テレビでのWii。ネットで意気投合しての結婚。音楽のダウンロード。YouTube、ニコニコ動画、USTREAM、エトセトラ。食べ物やショッピングや恋話{こいばな}にチャット状態で没入している社員に給料や社会保障の諸費用を払い続ける経営者に、心から同情申し上げる次第だ。

 現在の世界で起きていることは「一〇〇年に一度の激変だ」というのが定説のように語られている。私が「いや、五〇〇年、一〇〇〇年単位の変化である」と確信する理由は、本書を読んでいただけば、分かっていただけたことと思う。

 初めてパソコンをローンで買った日のことも忘れがたい。一〇〇万円近いワープロ専用機を買い、故障したらNECに持ってきてくれと言うので、三〇キロ近くあるワープロを持って支社に行ったら、受付で「それは何ですか?」と言われたことも懐かしい思い出だ。

 分からないことだらけだった。だから、ワクワクした。ツールそのものに興味はなかったけれど、新しいツールやインフラの誕生や進化には「生きる勇気」を与えられた。

 これで、俺も食っていける――。

 私は二〇代の後半、年間三五〇〇時間も働いていた時期がある。今は、その一〇分の一を目指し、年収はフリーランサーになってから一年の例外もなくアップし続けている。毎日が楽しい。自由な発言も臆せずできる。

 どうすればよいか。そんなものは簡単である。よく本を読み、優れた人の話を謙虚に聞き、実際に行なわれている現場に足を運ぶ。それだけのことを厭{いと}わなければいい。人並みの才能しかなくても、その才能に全力を傾注し、他人の小さな工夫を何十か何百かを採り入れていけばいいだけだ。そうすれば必ず収入は増え、代替{だいたい}可能な労働時間は激減してゆく。

 そうならなければ、何か根本的なところで間違っているのである。

 しばらく前、久しぶりに東欧を巡ったとき――いや東欧というのは政治的な呼称としか言いようがないので、中欧といったほうがいいのかもしれない――ハプスブルク家に長子が誕生した、というニュースが王朝の隅々まで伝わるのに、いったい何年かかったのだろうかと、しばらく深刻に考えた。

 車の中で、私はそのことを調べるためにiPhoneを取り出してググり、おおむね仮説がたてられたので、東京在住の専門家の知り合いにメールを書き、即答を得た。

 私は独り、通訳の横で吹き出してしまった。

 ハプスブルク家の人々に、いま私が何をしたかを説明をするのは、ひどく困難であるなあと思ったからだ。たぶん死刑になる。

 冗談半分の話は、これくらいにして。

 ダダ漏れは、冒頭でも述べたように、官僚政治やマスメディアの在り方などに革命をもたらした。政権交代よりずっと、私はダメージを与えるだろうと感じている。

 ただし、ダダ漏れ民主主義には、真実だけが含まれているわけがない。ウソや事実でないことも、その数倍はある。どう少なく見積もっても、だ。

 日清日露の戦争とともに躍進を始めた大メディアの時代と同様に、個人メディアの時代には、これまで以上のリテラシーが必要とならざるをえない。巨大な一方通行メディアは短所もたくさんあったが、ミスやウソの報道には大きなペナルティが課せられた。個人メディアは誰もが発信できるばかりか、大メディアをつまらなく感じさせるだけの破壊力を充分にもっている。

 だが、それらに比例したウソも平然とまかり通るのも、また忘れてはならない事実である。

 権力者への接近を目指す必要はない。かつて政治家は、サルでもできた。公務員も、合格するまでだけ優秀であればいい時代が長く続きすぎたのだ。しかし、そんな時代は必ず終わる。もはや、サル的な人には政治家も官僚も務まらない。小さなメディアが、縦横無尽に中心部も周辺部も細部も、とらえ始めたからだ。その情報に接するのは小学生にも簡単にできる。昭和の前半まで「知」は家長に、戦後は学校と大メディアに独占されてきた。

 これからは、両者が併存してゆくのが好ましい。いや実際には、むしろ逆転してゆく。

 問題は、情報の断片を正しく構造化し、自己も日本も世界も相対化する力量だということになる。

 本書の副題が「メディア強者になる!」と題された所以{ゆえん}である。

 最後に――。

 本書は、私の本を学生時代から読んでいたという、少々変わり者で、全一六時間に及んだ「朝までライター・セミナー」(私の主催。二〇〇四年一月二四日)に就活中の身で参加された石井克尚さんが、講談社に就職をして、書物としては初めて編集の労をとってくださった。上司の加藤晴之さんにも、本書が成るにあたっていろいろケチを、すみません、ご助言を賜{たまわ}りました。仰{おお}せのとおりに加筆するしんどいハメに陥りながらも、キンドル上陸とiPad上陸の直前に緊急出版することができたこと、心より御礼申し上げます。

 iPadは、この「あとがき」を書いている本日から一ヵ月半後に日本で発売される予定である。この本のもとになった連載を書いている「取材対象」の一つでもあるので、米国の専門店から買い求め、現時点で私には、すでに不可欠のツールとなって、もうすっかり馴染んでしまった。

 漫画が、とりわけ読みやすい。麻雀ゲームにまで、不本意にも取り憑かれつつある。

 ヤバい感じだ。どうにかしたい。

 英語の本も、キンドルやiPhoneやiPadのおかげで、かなり早く、そして愉しく読めるようになった。
 しかし、所詮それらは器{うつわ}である。

 コンテンツを作る人々や会社が滅んでしまっては、元も子もない。

 本書は、『週刊現代』二〇〇九年七月一八日号から二〇一〇年五月一日号までの連載「なんなんだこの空気は――メディア考現学」をもとに、新たな単行本として書き改めた。同誌編集長の鈴木章一さんとは、『「松代大本営」の真実』(講談社現代新書)の企画から完成までずっと伴走してもらって以来のおつきあいになる。異動の先々で連載や執筆を依頼し続けていただいた。

 今回は鈴木さんから、「僕ら自身もメディアの行く末がよく見えない。僕らのために書いてください」との謙虚なる提案に始まっている。おこがましいと思いながらも、私自身にとっても最重要なテーマなのだ。長い「謎解き」の旅に出るのに躊躇{ちゆうちょ}は、なかった。

 デスクは若い佐藤辰宣さんが担当してくださっている。佐藤さんの毎週の励ましと逸早{いちはや}いレスポンスがなければ、毎週二ページの連載を続けることはとうてい叶わなかった。「メディア」は、あまりにも私との距離が近すぎ、受け手側として見ても、あまりにも切実な問題を孕{はら}みすぎている。

 この間{かん}の連載が、個人メディアや電子書籍や重大事件についての諸テーマが中心となったた、「ウェブ3・0」とさえ言いうる時代の幕開き直前というタイムリーな時期に書物として世に問えることを大変うれしく思います。

 自分で言うのも何ですが、一五年ほど前に書いた『情報の技術』(朝日新聞社、月刊誌「論座」の連載は一九九四年末から。出版は一九九七年)を読み返すと、その二五章すべてが現在、そこで書いた通りになっていました。いまこそ読まれてほしい一冊なのですが、朝日新聞社から出版部が切り離され、別会社となり同書が絶版となったため、自らのサイト「ガッキィファイター」内の「絶版本」コーナーで電子書籍として頒布{はんぷ}したところ、十数年前の紙の本よりたくさん売れるという「デカいロングテール」現象に驚いている次第です。これもまた、あまりにも身近ながら取材対象の一つとなりました。

 本書も、賞味期限は少なくとも二〇年はある――。

 笑わないでいただきたい。そのような、人生に役立つ本であったらと、改めて願いつつ筆を擱{お}きます。


日垣 隆

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