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電子書籍版 敢闘言 さらば偽善者たち

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PDFでお読みいただける、
当サイト限定電子書籍版
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  定価:1,627円810円 引き続き特別割引実施中!
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《編集者がつけてくれた帯のコピー》

「ダイオキシン猛毒説」で得をするのは誰か?「殺人」の4割が不起訴になるのはなぜか?物書きとして父親として様々な偽善と闘いつづけ、反発、非難、恫喝、圧力、そして喝采を巻き起こした「エコノミスト」の名物コラムが蘇る。脆弱化する言論の荒野で「地雷」を踏みつづける、言葉による実力行使。
共産党の偽善は毎度おなじみ/サルでもなれる宇宙飛行士/国連軍は紛争の当事者だ...。偽善者を憎む著者が、時事的テーマを取り上げ苦言を呈す、『週刊エコノミスト』連載のコラムをまとめたもの。


 


目次

第1章 ダイオキシン猛毒説の虚構
第2章 裁かれぬ殺人者たち―刑法三九条「心神喪失」のタブーを突く
第3章 敢闘言(またしても「記憶にない」と
恐喝する外国人労働者
学校のアナクロを変える
なぜ女性は美しくなるのか
科技庁にドラム缶を飾れば
NHK会長への公開質問状
移植医は「やりたい」 ほか)


 

高みからものを言う人は、小心者なのだろうと思う。今ほど具体的で地に足のついた言論が必要なときはないのに、いつのまにか、偉そうに抽象論だけをもてあそぶ無責任な文章家がバブルのごとく増殖してしまった。自分が直接見聞または体験したことにしっかり依拠した議論ができる人は本当に少ない。いつも逃げ道を用意しているから、小心者になり果てる。
 ただし、私は小心者を憎みはしない。戦争とは無縁の地から反戦をスローガンとして叫ぶ人は、紛争地帯に生きていれば好戦家となったに違いない。それだけのことなら小心な人々を憎まない。だが、私は偽善者を憎む。
 権力や圧力と戦っていると自己認識しつつ他人を否定することで飯を食っているのに、私のようなチンケな者から批評されるや逆上し、私(当人)へではなく、私の頭を通り越して圧力をかけまくる、というおっさんたちは偽善者の典型である。女子高生という理由だけで買春するおやじが、生徒指導熱心な教師だったり、淫行条令制定の旗をふっている紳士である例は想像以上に多い。偽善者たちには、二〇世紀の遺物として、そろそろ静かに博物館入りしていただこう。自分で批判している当の理屈を、別のところで自ら行使してしまう、そのようなダブルスタンダードが偽善の表現形式である。
 「当人へではなく、当人の頭を通り越して圧力をかける」という偽善者体質と闘う今日的意味は、実はとても大きい。従来の集団的運動では、私憤を公憤に変えるという場合、相手の組織に圧力をかけることと、それは同義でありがちだった。だからしばしば、在野の圧力組織のほうが、むしろ無自覚なまま自ら権力的になってしまい、朽ちていったのである。
 私憤を公憤に変える?
 それが偽善の始まりだと言っているのである。
 不倫している人を、私は憎まない。そんな資格など私にはない(私もしている、という意味ではありません。その人の不倫を憎める立場にはないという、あたりまえの意味である。念のため)。しかし、両手を高く振り上げながら、他人の不倫とその卑怯な後始末を糾弾してみせたTVニュース解説者が、自ら醜悪な後始末をしでかしていたのなら、私は彼を偽善者と断じる。そんなことは、彼の登場時から気づいていたが。
 私は、公憤を私憤に変える、という方法論をとって生きてきた。私憤を糊塗する必要があるとは思えなかったからだ。私憤を公憤の鎧に包もうとすれば、いたずらに集団の力を頼まなければならなくなる。だいたい、私の同世代を見渡すと、本気で怒っているやつなんてほとんどいない。怒るべきだ、と言っているのではない。「べきだ」と安易に言うのは、たいてい偽善の落し穴にハマっていく。そうではなく、怒りの矛先に向かって怒りをぶつけるやつが、現実にはひどく少ない。
 で、私はどうなったか。
 かつて、何度か失業をした。この六年間にも偽善者たちの圧力により、たくさんの仕事も失った。でも、その程度の圧力に屈する人たちと仕事をしなくて済んだ。本当によかった。
 さて本書の大部分は、この六年間およそ三〇〇回にわたって「週刊エコノミスト」に連載された 「敢闘言」から成っている。さながらこの六年は、言論の荒野で「地雷」を踏み続けたかの感がある。単行本化にあたり、そのすべてに事後のコメントを付した。太田出版の提案で、第一章と第二章にルポを再録することになった。いかにも 「敢闘言」の書き手にふさわしいものだ、という評価であるらしい。その成否は別として、「敢闘言」でしばしばジャーナリズムの在り方に異を唱えている私は、じゃあお前はどんなルポを書くのか、という疑問に同じ場所でお答えする義務があるように思えた。
 本書は、すべて時事的テーマを扱いつつ、一〇年後にも読まれることを強烈に意識しながら一つ一つを書き継いできた。九〇年代をつぶさに振り返ることは、二一世紀を進むためにどうしても必要な作業であるように思える。
 何が朽ち、何が興きてゆくのか――。

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