ID:

パスワード:

前の記事| |次の記事

インターネットでペルー人質事件に迫る new.png

internet160.jpg インターネットでペルー人質事件に迫る


250円(税別)


目次

「穏健」ゲリラヘの対応
内と外、情報の断絶
ゲリラかテロリストか
1997年2月 発表 未書籍化作品

立ち読み

「穏健」ゲリラヘの対応

 1972年は、マスメディアにとっても戦後最大のエポックであったと私は思う。
 1月にはグアム島の密林から横井庄一・元軍曹が見つかり、2月には札幌五輪の70メートル級ジャンプで日本のメダル独占にわいた興奮もさめやらぬころ、軽井沢の山荘で連合赤軍による人質籠城事件か起きた。人質龍城といえは、その4年前に金嬉老がライフル銃で二人を射殺して逃走し、温泉宿で13人を人質にたてこもり、朝鮮人差別の苦渋を訴えるという事件があった。

 が、警察側との一部始終が茶の間に中継され、「テレビの前に釘づけになる」国民的初体験は、同年2月28日の浅間山荘における銃撃戦だった。籠城した連合赤軍メンバーが逮捕されて一週間後、山岳アジト周辺などから総勢12人のリンチ殺による遺体が発見された、あの衝撃が私のメディア体験の原点にある。どうでもいいことだが、当時、私は中学2年生だった。

 佐藤栄作首相が引退の記者会見で、「新聞は正確に伝えない」と新聞記者を追い出し、NHKのカメラだけを前に語りかけたのも、やはり同年6月である。

 この年は、どんな年だったのか。沖縄返還、日中国交正常化、経済成長率が実質9.5%、郵便貯金残高が10兆円の大台に乗り、海外旅行者が100万人を超え、列島改造ブームで土地成り金の全盛時代に突入していた。

 ミュンヘン五輪では、パレスチナゲリラが選手村のイスラエル人宿舎に侵入して二人を射殺、さらに9人を人質に高飛びしようとした空港で、ドイツ警察が銃撃戦に挑んだのも、同年9月のことだ。あの銃撃戦ではなんと、ゲリラ側か3人、そして人質全員までが射殺されたのだった。

 思うに、組織による人質籠城に対しては、二つの基本戦略しかない。一つは、即日の突入であり、もう一つは長期の対峙である。
(後略)

※在ペルー日本大使公邸襲撃事件
 1996年12月17日に、在ペルー日本国大使公邸にて、ペルー政府関係者、各国の大使その他の外交官、ペルー在住の邦人等多数を招待して開催された天皇誕生日祝賀レセプションに、「トゥパク・アマル革命運動(MRTA)」が、爆発物等を使用して侵入し、大使公邸を占拠した。MRTAは過去最多の約700人に上る人質を取ったが、漸次開放された。1997年4月22日、ペルー政府は、軍の特殊部隊約140人を大使公邸に突入させ、残っていた人質72人のうち、本人24人を含む残る71人は、事件発生から127日目に救出された(ペルー最高裁判事1人が死亡)。銃撃戦の末、犯人グループは、14人全員が死亡した。


<ご注意事項>
(1)この商品は電子ファイル(PDF)です。
(2)たいへん恐縮ですが、この画面から本商品をお買い求め頂く場合には、クレジットカードでのお支払いのみの受付とさせていただきます。
(3)クレジットカードで決済完了されると電子書籍(PDFファイル)をダウンロードできるURLをメールにてお知らせいたします。
(4)買い物かごはクイックチャージシステムを導入。一度IDを登録すると、次回からカード番号、ご住所のご入力がいりません。 ワンクリックでお買い上げいただけます。

前の記事| |次の記事

 

ページ先頭に戻るトップページに戻る