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敢えていま「弁証法」の大切さを説いてみたい


(前略)
不肖私には残念ながら集中力と持続力はそれなりにあっても(執筆と調べ物
に熱中していたら朝刊が二度来ていたことがありました)、完璧性(ヲタク性)
は欠如しています。
 言い訳しますと、モノの収集というのは一般的に5割や6割は簡単です。が、
8割を超えてくると、それまでのエネルギーの何倍も何十倍も必要になってく
るものなのです。

 世界中のウナギ全種を集めるに際して最後の1種を探し当てる作業は、それ
までの全種を集めるより膨大なエネルギーを要すると覚悟しておいたほうがい
いでしょう。

 百名山でも、70までならそれほど苦労は――しますが(笑)――登山愛好家
ならばやり遂げられる数です。が、80を超えてきたり、85まで来たら死ぬほう
が先ということになりかねません。

 私にとっては日常である「1冊の本を書く」という作業でさえ、少なからぬ
人にとっては大変な仕事でしょう。私が立派で華麗な家を自力で建てるよりは
ずっとずっと簡単だとしても、それぞれ得意不得意や専門性や体験知というも
のがあります。

 断じて「完璧を目指さないこと」――これは正確ではないかもしれませんが、
肝に銘じてください。この真意は、「完璧を目指すあまり、結局フィニッシュ
にできない」という事態を避けよう、というところにあります。

「完成」という「量」を重ねてゆくと、必ず「質的転化」が螺旋(らせん)階
段的に訪れます。
 ゼノンによって問題提起されアリストテレスによってさらに進化したこの思
考法を、ヘーゲルが弁証法として厳密に定義していることは、よく知られてい
ますよね(いないか)。

 ともかく、存在は常に変化している――とヘーゲルは喝破(かっぱ)しまし
た。ヘラクレイトスが明言したとされる「万物は流転する」と同義と考えても
いいでしょう(実際には大きな厳密な定義の進歩がヘーゲルにはあるのですが、
ここで哲学講義をするつもりはありません)。

 弁証法によれば、「今」という瞬間は存在しえません。弁証法によらなくて
も、そうですよね。
「今」は常に過去になってしまい、未来と過去はありますが、「今」は存在し
えないでしょう。現在は常に「流転」しているのです。
 生物学的にも、このことはすでに証明されています。
「体内細胞の今」は存在しえないのです。

 ただし、これはあくまで哲学的に厳密な定義をしたら、という意味において
であって、現在を否定してしまうと、手術もできませんし、「あんた誰」とい
う話にならざるをえません。

 新陳代謝を厳密に追ってゆくと、0.1秒前の私と、0.099秒前の私は違います。
そのことが重要な意を持つ局面と(脳死や移植など)、そんなものは大ざっぱ
に考えたほうが良い局面とがあるに決まっているわけです。

 川の流れも、雪の結晶も、放射能の流れも、何一つとして「同じ」流れは一
つもありえません。
 ヘーゲルの偉大さは、対立する力の均衡という物質的本質が、静止した存続
という現象をしっかりと支えている、と見抜いたことでした。

 わけわかんねかい?

 ともかくここで重要なのは弁証法の現代的応用力です。
 弁証法の現代的汎用性について書き始めたら1冊あっても足りそうもないの
で、簡単に言いますと、何かを壊したときに支払いを......それは弁償法だ。
 弁証法とは、英語でdialectic、ドイツ語ではDialektikなのですけれども、
弁証法の語源はギリシア語であり、dialektike(ディアレクティケー)となり
ます。対話法、あるいは問答法なのですよね。

 正しいと信じ込んでいることを敢えて否定してみることによって、そこから
立ち上がる心理を取り込んでゆく――と考えてみてください。
 ディベートとは違いますよ。あれほど軽薄ではありません。ディベートの2
%くらいは弁証法的思考にも役に立つ、というくらいが実際でしょう。

(後略・・・・・・ 続きをお読みになりたい方はメールマガジンをお申し込みください)


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