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ノーベル賞の二人

北欧の小さな国が始めた賞が、先進国ではマスコミの注目の的になる。
 およそ賞というものは、与えられる側の名や評価をさらに高めるためのもの
のように思われがちですが、その本質は、与える側の名と評価を高め続けてナ
ンボのものですよね。

(中略)


数年前と今を比べると、総じて韓国人のメンタリティは柔らかくなっている
のを感じます。

「いい試合だった」
「日本は本当に強くなった」
「今後が楽しみだ」
「次は優勝決定戦で」

 一言でいえば、ゆとりですよね。爽やかなものです。

 初のノーベル賞をとるべく国家的プロジェクトまで組まれていたもとで、か
つて起きてしまったデータ捏造事件の痛手は大きく、韓国人インテリと科学界
および政府にとって「あの話題にはもう触れたくない」という雰囲気が今も濃
厚に漂っているのとは対照的と言っていいでしょう。

 5分野にわたって世界トップシェアを占めるに至ったサムソンも、同国の我
が友人たちには大変申し上げにくいことながら、明らかにほとんどすべてがモ
ノマネであり、権利侵害で連続して敗訴をくらうことは疑いなく、巨額の賠償
金によって失踪するか、この権利侵害を真摯(しんし)に受け止めむしろバネ
にして飛躍できるか、歴史的に見て韓国経済も再び大きな分水嶺に立たされて
います。

 猛追する使命を帯びたものや、トップの地位を保持することが自己目的化す
ると、非常に高い頻度で出現する「限りなく窃盗に近いコピー」や「捏造」は、
観察対象として大変興味深いものがありますよね。

 フィリピンでiPhone4S(5ではなく)は4万ペソ(8万円)もしますが、サム
ソンの「超類似品」は半額以下です。

 問題は、日本もかつて「安かろう悪かろう」で欧米に対抗していった道とほ
とんど類似の道を韓国などが歩みつつあり、数年以内に日本経済にとってそれ
が吉と出るか凶と出るか――。

 人件費が安く、同じレベルのものを作れるようになった分野(液晶テレビほ
かの家電や半導体など)で、人件費の高い国の会社が勝てるわけがありません。

 ノーベル賞受賞者の数はアジアで突出して日本が高く、今なおかろうじて
「他をもってかえがたい技術」をもった諸製品やシステムで勝負していかざる
をえない時代なのです。

 国際化(通貨統合や人的流出の増大や共同開発など)が進めば進むほど、ド
メスティックな面が内部で膨張してしまうのもまた、歴史が繰り返し私たちに
示しています。

 朗らかさと、おそらく世界で最も家族を大切にすることで知られるフィリピ
ンに半ば住みながら、呆れるというより笑ってしまうしかないのは、98%の
人々や会社や組織が、「努力をせずにお金をもらおうとする気質」や「たいて
いのことは事実に反している」「間違っても言い訳だけは達者」「明日のこと
は考えない」気質に満ち満ちており、「期待するのはやめるべき」という心構
えがないと、こちらでの生活は心から楽しむことができないように思います。

 恐ろしい貧困に満ちているのは、例えばインドやバングラデシュなどと変わ
りません。

 主としてこの両国で地道な努力を続けた、著名な二人のノーベル平和賞受賞
者がいますよね。
 マザー・テレサとムハマド・ユヌスです。

 日本は、アメリカよりも、もちろんヨーロッパ諸国よりも、インターネット
の使用回線容量は大きく、スピードも圧倒的に速い――と私は最近も各国を訪
れて実感を強めています。私が今いるセブ島では「wi-fiエリア」という立派
なポスターの前で昨夜から送信を試みているにもかかわらず、あまりにも回線
が狭いため、まったく使えない日もあり、個人的な「武器」を使って、ようや
く「グーグル検索をワンクリックして結果が表示されるまでに、トイレに行っ
て帰って来られる」ような状態です。

 おかげさまで、検索がほとんどできず、記憶力増強に役立っている――よう
な錯覚(なのかな?)を覚えます。

 こういうときの処方は、「腹を立てない」に限ります。腹を立てても何も変
わらないのですから。

 私自身に関して言えば世界各地を25年間あまり歩き続けてきて「極貧は罪悪
だ」と確信するものですけれども、貧しき人々が良き人々であるという保証は
まったくありません。

 一度助けたら、二度三度四度五度六度......と頼ってくること数限りなし。
 働け~~~~~~~~とは思い、私に感謝するのではなく「アーメン」とか
言って神に感謝する。感謝するなら俺に......。いやいや、そうではないか。

 私のなかにある葛藤(かっとう)は、小学校のときに尊敬し始めてしまった
マザー・テレサに起因しています。

 彼女は、常に「無条件の愛」や「痛みを伴うほどの慈悲と行動」を続けてい
ました。ちんけな私が大学2年のときにマザー・テレサがノーベル平和賞を受
賞した際、記者から「世界平和のために私たちは何をしたらいいでしょう」と
尋ねられ、「まず家族のもとに少しでも早く帰って愛してください」と答えて
います。

 身近なことを変えられないものに、世界を変えられるわけがない、と言って
いたように感じられます。

 彼女自身は、ずっと以前から「飢えた人、裸の人、家のない人、身体の不自
由な人、愛されていない人、重篤な病人、必要とされていない人、愛されてい
ない人、誰からもケアを受けていない人たち」のために働くという強い意志を
持ち続けていたようです。

「まず政治や社会の仕組みを変えないと」という偽善的言論が私の小学生時代
にも、そして今でも根強く残っていますが、『偽善系』(文春文庫)のメイン
テーマは、まさにその重要な問題――「まず目の前にいる、困難を抱えた人に
最善を尽くす」ことから始めなければ、結局のところ何もしないか、まったく
心が痛まない程度の小銭を入れて赤い羽根や緑の羽根(一例ね)を誇らしく胸
につけるのと変わらない。それも結構だけれども、私の流儀ではない。

 私はフィリピンで、自分でも信じがたいような出費とエネルギーを、たまた
ま知ってしまった人々のために、与え続けている。
 その後の彼ら彼女たちのリアクションには耐えがたいものがある――。

 ゴミのような私が身体を壊しそうになるほどのストレスを抱える現実から推
測しても、テレサたち修道女の「決して見返りを求めない」行動が、いかに私
の心構えと異なっているかを思い知らされるのです。

 私自身は「見返り」を求めていないつもりであったにもかかわらず、ここま
で無条件で尽くしたのだから「多少は感謝されたい」という気持ちがあること
を自覚するのは、感謝どころか、お金も食べ物も底をつき乳児が結核で死にそ
うだという一家が、さらに借金地獄(1日につき10%の高金利。日本でいうト
イチ=10日で1割の金利よりも高い)に陥っていれば先は見えている。私はベ
ストを尽くす。すべてを解決したと思ったら、感謝どころかわずか数日後に
「次はいつもらえる?」と尋ねられる――。

 私は、あらためて「見返りを求めない」という思想の深さと、他方でそれを
生涯の仕事とした人々自身、そして施された人々も本当に幸せだったのか、と
の薄汚い疑心を消し去ることができないで、貧しき人々の暮らしと接し続けて
います。

 上記したテレサの言葉のなかで、私がとりわけ胸を打たれるのは、「誰から
も必要とされていない人」に続く一群の人々の存在でした。

 うじ虫がわいたまま死にゆく人々に私も数限りなく出会ったことがあるけれ
ども、マザー・テレサはそんな人々においしい水を与え、話しかけ、身体を清
め、抱きしめ、彼が息を引き取って逝くとき笑顔だったと、そばに居合わせた
人の証言などが、たくさん語り継がれています。

 グラミン(村落)銀行を創設し、主として無職の女性から20%前後の金利を
とる無担保金融により、商いを始めるバックアップ――利益が確実に出るよう
な現実的システム――をつくりあげたユヌスが同賞を受けたのは、確か2006年
だったでしょうか。

 全面的な善というものはないと私は思います。だからと言って、セルフィッ
シュでいいというわけはないとも痛感するのです。

 ユヌスとテレサ。一見すると似て非なるもののようにも見えますし、同じで
ある必要などそもそもないわけですが、山中教授をも含めて共通していること
があります。

(後略・・・・・・ 全文をお読みになりたい方はメールマガジンをお申し込みください)

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