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第12回 「スタンドアップ」

 何事にも、時代背景があります。セクハラも、今なら限度を遙かに超えて明
らかに犯罪として認知される幾多のケースが、かつては野放しにされていまし
た。
 大昔の話ではありません。1989年の北ミネソタの鉱山が、この映画の舞台で
す。


 主人公のシングルマザーのジョージー(シャーリーズ・セロン)は、夫のD
V(家庭内暴力)から逃れて故郷に帰ってきます。資格もないシングルマザー
がありつける他の仕事より6倍も稼げるので、鉱山での労働を希望する女性が
徐々に増えてきている、という時代背景です。
 もともと先進的な女性たちというより、夫が鉱山で働けなくなった、といっ
た何らかの事情を抱えて、ここに来ています。1989年当時も、この鉱山で働く
男女比は30:1でしかありません。


 労働を奪われると思ってしまう男たちにしてみれば、「立ちションもできな
い女は出て行け」ということなのでしょう。次々と起こる事態は、セクハラな
どという生易しいものではありません。


 そもそも男性用のトイレしかない。
 女性用トイレを作ったら俺にナニをしてくれるのか、と問う男たち。
 ようやく簡易トイレが置かれたと思いきや主人公が入っているとき倒す。
 強姦未遂。
 女性用ロッカールームの壁を汚物で塗りたくる。
 差別は子どもにも及び、アイスホッケーでも子どもにパスがされない。


 ジョージーの二人の子は父が違い、「アバズレ女」というふうに周囲からは
見られています。ジョージーは協調性もあまりなく、ときどきヒステリーを起
こしてしまいます。社長に直訴したりもするのですが、それも逆効果で、他の
女性たちからも恨まれる始末。


 もちろん、ジョージーの主張そのものは、他の女性たちにも共有されていま
す。が、男社会での反感を買ったら、もっと酷いことをされる――。
 ここまで露骨ではなくても、「子どもが熱を出したから会議に出られなく
なった」というだけで女性にNGの烙印を押す現代日本社会も、そういう風土
を放置しているという点で実は同じなのですよね。


 いやがらせ、差別、排除。これらの性的迫害に対して、見て見ぬふりをする
態度は「結果的に共犯になる」と考えるか、それとも、黙って耐えていれば
「きっと受け入れてもらえる日が来る」と考えるか。二つに一つです。
 労働現場にいると、仲間たちは、なかなか決断がつきません。労組は常に多
数(せいぜい現状維持)のためにしか動いてくれませんからね。
 しかしながら、状況を打開してゆくのは、いつでも個人です。


 ジョージーの父もベテラン鉱夫です。多数派であり、「女のくせに男の職場
を乱すものではない」「もううんざりだ」と言い続けてきました。この父も初
めのうちは、さすがに「そこまでひどいことが行なわれている」とは気づいて
いません。女性であるゆえになぜこれほどの性的迫害を受けなければならない
のか。


 全員集会で、ジョージーに対する非難が巻き起こります。彼女は皆の前で反
論をさせてほしいとマイクを握り、孤立しかけたとき、父が手を挙げ壇上にの
ぼり……。


 父は言います。
「なぜ、ここまでひどい迫害を受けるのだ。うちの娘が男だったらよかったの
か? きみたちは本当に私の仲間なのか? いま誇りたく思うのは、私の娘だ
けだ」


 NOと言うべきことには声を上げなければ、ひどい状況を後押ししてしまう
ことになる、というのは誰だって胸中感じていることなのではないでしょうか。
 この映画は、女性が超少数者である肉体労働現場での実際と、ジョージーを
原告とする裁判(原作はアメリカ史上初のセクハラ集団訴訟ドキュメント)が
交互に進行していきます。


 法廷でも、ジョージーはずっと不利な立場に置かれていました。が、終盤で
少しずつ覆っていきます。
 セクハラ系の男は、反感を覚えるだけだと思いますので、観ないほうがいい
でしょう。


 只今ベストセラー街道まっしぐらの「鈍感力」なんていう醜悪で単細胞な居
直りとは縁を切って、素直に感動できる人がいいなあ、と思う今日このごろで
す。


                「ガッキィファイター」2007年03月08日号に掲載

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