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日垣のような視点はトキ並みの生息率である

《なぜ日本のマスなメディアは、「『殺してやる!』こそが『近ごろの若いもん』の本音でありその気持ちはわからないではない」、といった趣旨の報道を繰り返すのだろうか。
 しごく真っ当な神経を持った人間ならば抱いてしまう、この問いに対して日垣は、次のような一文とともに、「それは日本のノンフィクションの特異性によるものだ」、といった指摘をする。〔中略〕


 もちろん私も、世の中の男すべてが、「被害者に感情移入することのできない人でなし」であるとは思っていない。が、しかし、「日垣のような視点」=「殺される側の視点」でノンフィクションを書こうとしている男性クリエイターは、やはりまだ少数派であり、「トキ」並みの生息率だと思う。なぜこうなってしまうのかといえば、大半の男性ノンフィクションライターの場合、「謎解き」がしたくてたまらない、というのが本音だからだ。》(荷宮和子『若者はなぜ怒らなくなったのか 団塊と団塊ジュニアの溝』中公新書ラクレ)

■本人によるコメント:凶悪な殺人者に共感して被害者を徹底的に無視するノンフィクション(『復習するは我にあり』とかね)が、日本の文学賞やノンフィクション賞受賞作の王道を歩んできたわけだが、こいつらはちょっとおかしいんじゃないか、と俺は常々思っていた。殺人が完遂された時点で、犯人の「動機」なる謎解きは完結してしまい、なおかつ、その謎解きは検証もできない仮説にすぎず、しかも何の教訓にもなりはしないのである。


 他方、被害者はその時点で夢と人生を断ち切られ、遺族は、殺人の完了時点から全く新しい人生を歩み始めなければならないのに、そのことを完全に無視する文学やノンフィクションとは、いったい何だったのだろう。
 充分に検証されなければならないテーマだと思う。

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